平城宮跡|大極殿・朱雀門・東院庭園と奈良時代の天皇たち

奈良時代を代表する建築物、平城宮。おおよそ1km四方の敷地の中に、天皇が出御する儀式のための大極殿、役所機能を持つ朝堂院・官衙など、政治の中枢となる建物がありました。単に建物があっただけでなく、天皇を始め、歴史に名を残す多くの人物が登場する奈良の政治舞台でもあったのです。彼らは、まさに「咲く花の匂うがごとく」華やかな奈良の都を形成していきます。『続日本紀』の記載をもとに、平城宮での華やかな場面を見ていきましょう。

大極殿

708年、武蔵国むさしのくにで天然の銅が発見されました。ときの天皇、元明げんめいはこれを天地の神が祝福し現れ出た瑞宝だとして喜び、年号を和銅わどうに改めます。このめでたい和銅元年の2月15日に天皇は次のように勅しました。

「自分は、遷都についてはさほど考慮していなかったが、多くの臣下が、国を太平に導くには、世を占い地相を見て都の位置を決めるべきだと言う。昔、殷や周の諸王は、太平の世を築くため何度も遷都したと聞く。それならば、自分もこの住み慣れた都を遷そうではないか。まさに奈良の地は、青竜、朱雀、白虎、玄武の動物が陰陽の吉相に配され、香久山かぐやま耳成山みみなしやま畝傍山うねびやまの大和三山が鎮護の働きをする。この地に都を建てるべきであろう。」

2年後の暮、元明天皇は平城宮に行幸し、翌710年(和銅3)には遷都が行われました。しかし、このときにはまだ多くの建物が建設途中であったとのこと。平城宮の中心となる建物、大極殿だいごくでんが竣工を迎えるのはこの5年後でした。

大極殿

715年(霊亀元)元旦。この日、完成したばかりの大極殿で元日朝賀が執り行われました。東の空には虹色に光る雲が。「これは瑞雲だ」と人々は喜んだとのこと。元明天皇は高御座たかみくらに昇り、孫のおびと皇子が傍らに付き従っていました。着慣れない礼服姿の首皇子は、今日が正式な儀式への初参加。当時14歳、後の聖武しょうむ天皇です。

高御座|大極殿内

大極殿の前庭に居並んだ官人たちは二人に慶賀の意を表しました。この儀式には、近頃征討した陸奥むつ出羽でわ蝦夷えみしたちも参列。奄美大島や屋久島など南海の島々からも地産品が献上されました。彼らを迎えるために、太鼓や笛の演奏もあったといいます。遠江国とうとうみのくには白狐を、丹波国たんばのくには白鳩を献上しました。これらもまた瑞祥。非常にめでたい一日だったのです。

大極殿前広場|平城宮いざない館(復元模型)

朱雀門

724年、おびと王子が即位。聖武しょうむ天皇の御世となります。ある日、貴族の一人が、甲羅に「天王貴平知百年」という文字が記された亀を献上しました。これを瑞祥としてあやかり、年号を天平てんぴょうに改めました。万葉集に載る有名な歌「あおによし 奈良の都は 咲く花の 匂うがごとく いま盛りなり」はちょうどこのときの平城京を歌っています。匂い立つような華やかな天平の時代が始まったのでした。

朱雀門

734年(天平6)、聖武天皇は朱雀門すざくもんに行幸して歌垣うたがきを観覧しました。歌垣では男女が集まって掛歌を披露し合います。このときは、朱雀門広場に貴族ら男女240人程が集まりました。風流を心得る者は皆参加したといい、長田王ながたおう門部王かどべおうなどの聖武天皇の侍従らもかみを務めたとのこと。都中の人々も見ていた中で難波曲や浅茅原あさじはら曲などが演奏されたこの大イベントは、勧楽を極めて終演。聖武天皇はとても満足した面持ちで、参加者に品々を賜りました。

このとき、聖武天皇の娘、阿倍内親王あべないしんのうは父親と一緒に朱雀門から見物していたかもしれません。10代も半ばの少女であった彼女は、この後自分がこの政治舞台のヒロインになろうとは思ってもみなかったのではないでしょうか。4年後の738年(天平10)、阿倍内親王は皇太子となりました。後の孝謙こうけん天皇です。

東院庭園

749年、聖武天皇は皇太子阿倍内親王に譲位しました。女帝、孝謙天皇の時代が始まります。しかし、その7年後に父・聖武太上天皇が崩御。さらに翌々年には母・光明こうみょう皇太后が健康を崩し病床に伏してしまいます。母親の看病を理由にあっさりと退位した孝謙天皇でしたが、その2年後、光明皇太后が崩御したのを機に、政治舞台への復権を試みます。764年、称徳しょうとく天皇として重祚ちょうそ、年号を天平神護てんぴょうじんごに改めました。

緑釉瓦|東院庭園西建物内

称徳天皇は、皇太子のときから、平城宮の東側の一画で過ごしていました。ここは皇太子のための住まい、東院とういんといいます。天皇になってからも子供がおらず皇太子を立てなかったため、東院は称徳天皇自らが過ごす離宮のように扱われていました。767年(天平神護3)、称徳天皇はここ東院に玉殿を建築しました。屋根には釉を施して瑠璃色に仕上げた瓦を葺いていたため、人々はこれを玉宮と呼んだといいます。

東院庭園■特別名勝

東院には、ゆるやかな曲線で縁取られた池を中心とする優美な庭園がありました。庭園内には、水上の露台をもつ建物があり、称徳天皇はここで宴遊を催されたことでしょう。華やかな宴が終わったあと、かつて父聖武が朱雀門で参加者に品々を賜ったように、称徳もまた臣従たちに位階や授け物を賜りました。

東院庭園復元模型|平城宮いざない館
露台付き建物
隅楼

このときの称徳天皇は、藤原氏との政争にも勝利し、道鏡どうきょうとの愛にも満たされた、奈良の政治舞台で活躍するヒロインとして最も充足した日々を過ごしていたのではないでしょうか。

このように奈良時代には華やかな政治シーンに溢れていました。しかしその反面、100年足らずの内に皇室内の権力争いや藤原氏の台頭による疑獄事件が相次ぎました。これらはすべて平城宮という政治舞台で起こったのです。

基本情報

  • 指定:特別史跡「平城宮跡」、世界遺産「古都奈良の文化財」
  • 住所:奈良県奈良市二条大路南
  • 施設:平城宮跡歴史公園(外部サイト)