金井沢碑|コオリに住まう人々の想い【上野三碑を巡る Part2】

孝徳天皇による天下立評

現在の都道府県・市町村の県境や市境などは、奈良時代直前の大宝律令(701年制定)で設定された行政区画を踏襲しています。この行政区画の設定は、飛鳥時代の二人の天皇が行った大事業の成果にもとづき実現しました。それは孝徳天皇による天下立評と天武天皇による国境画定です。

孝徳天皇は、教科書でもお馴染み「大化の改新」のときの天皇です。大化の改新は645~650年に行われた一連の政治改革のことを言いますが、その中に天下立評事業が含まれます。これは全国に評(コオリ)という行政区画を創設する事業でした。

前回の記事でも書いたとおり、古墳時代には毛野、吉備、筑紫といった巨大な勢力をもつ地域がありましたが、ヤマト王権によって導入された国造制によって、これらの地方勢力は分割され、国造(くにのみやつこ)の職に就いた者がその国を統治するようになります。例えば毛野は、このときに上毛野国と下毛野国に分割され、それぞれ上毛野国造と下毛野国造が統治するようになりました。このころの国の数は120前後だったと考えられています。

この国造が統治する国をさらに細分化するために行われたのが天下立評です。国は分割や統合が行われて複数の評になりました。「評」はコオリと読みます。さらに、評の下には五十戸(サト)という新たな行政区画が創設されました。五十戸はサトと読み、漢字の示すとおり50の戸からなる行政区画で、複数の五十戸がまとめられて評が形成されました。評を統治する役職は評造(こおりのみやつこ)や評督(こおりのかみ)と呼ばれ、元国造の一族やそれと同等クラスの地方豪族が就いたそうです。

那須国造碑|多胡碑記念館(複製)
那須国造碑文|多胡碑記念館(複製)
那須国造の那須直葦提が評督を賜ったことを顕彰する石碑。日本三古碑の1つ。

天武天皇による国境画定

国を分割して地方豪族の統治領域を狭めたとはいえ、中央政府は依然として現地の統治に強く介入することができませんでした。そこで再び行政区画を変更するために行われたのが、天武天皇による国境画定事業(683年~)です。

天武天皇は、改めて国(クニ)の領域を定めなおし、この「国」を統治する人物を中央政府から赴任させることで、地方豪族の監督を強化しようとしました。こうして新たに国境が引かれ、日本全国は60余の国に再編されます。この事業の成果は、天武天皇の没後701年に大宝律令として世に公布されました。

大宝律令では新しく国の領域が決まったほか、これまでの評(コオリ)は、読みはそのままに郡(コオリ)へと名前を変えます。さらに評の下にあった五十戸も、読みはそのままに里(サト)という行政区画に変わりました。こうして日本は、国(クニ)>郡(コオリ)>里(サト)という階層の行政区画を、それぞれ国司>郡司>里長が統治するようになります。郡司の職には相変わらず地方豪族が就任しましたが、中央政府から赴任した国司の監督下に置かれたため、これまでのような自由はなくなってしまったのです。

郡は、その中に含まれる里の数によってランク分けされ、2~3里の郡を「小郡」、4~7里を「下郡」、8~11里を「中郡」、12~15里を「上郡」、16~20里を「大郡」と呼びました。これらの名称は今でも地名として残っています。1つの里は50の戸からなり、当時の戸籍によると一戸には20人前後が所属していたようなので、1つの里にはだいだい1000人前後の人々が住んでいたことになります。小さな郡では2千人、大きな郡では2万人くらいが住んでいたのでしょう。ちなみに、当時の郡の数は555、里の数は4012だったそうで、日本の人口は400万人程度と見積もられています。

大宝律令の公布後、縁起のいい漢字二字に国名が改められ、順次、郡名や里名も変更されていきます。例えば上毛野(かみつけの)は上野(こうずけ)に、下毛野(しもつけの)は下野(しもつけ)に変わりました。その後717年頃には、里は読みはそのままに「郷」に改められ、郷の下にさらに「里(コザト)」を置く体制に変更され、国(クニ)>郡(コオリ)>郷(サト)>里(コザト)の階層になりました。しかし739年頃わずか20年で里はなくなり、国郡郷制で確立したまま、その境界は現在も生き続けています。

国郡郷制の変遷

金井沢碑に記されたコオリの人々

いくつもの階層に分けられた行政区画ですが、国司の統治力は郷には及びにくく、一方で郷長の権限はさほど強くなかったため、実際は郡司の役割が大きかったと見られています。そこに住まう農民たちにとっても、国の領域は大きすぎ、郷や里では小さすぎるという感じで、体感としては郡(コオリ)の領域内で日常生活を営んでいたのではないでしょうか。

石碑が立地する谷筋斜面
金井沢

ではこのコオリの中にはどのような人々が住んでいたのでしょうか。それを示す石碑が上野国にある金井沢碑です。金井沢碑は726年に建立された石碑で、現在は岩野谷丘陵を北に向かって流れる金井沢の谷筋に保存されています。建立当時もこの沢の周辺にあったと見られていますが詳しいことは分かっていません。

金井沢碑|正面
高さ110cm、幅70cm、暑さ65cmの安山岩を使用した碑。

石碑には次のように記されていました。「上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子■が祖先および父母のために、ただいま家刀自の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の馬爪刀自、次の若馬爪刀自の合わせて六人、またすでに知識の結びつきを持つ三家毛人、次の知麻呂、鍛師の磯部君身麻呂の合わせて三人、このように知識の結びつきによってお祈り申し上げる石文である。神亀三年丙寅二月二九日」

冒頭には「上野国群馬郡」と記されています。「群馬」は「くるま」と読みます。この読みが分かったのは、「評」の時代に「車評」と表記されていた史料が見つかったためです。郡が設置され漢字二字に改められたときに、「くるまのこおり」という読みは変えず「群馬郡」と表記されるようになったのです。

さらに下には「下賛郷」と記されています。これは「しもさぬ」と読みますが、どこかで聞き覚えはありませんか?そう、山上碑で見た「佐野のミヤケ」の佐野のことです。佐野地域の一部を下佐野と呼んでいたのを、漢字二字に改められたときに「下賛」と表記するようになったのでしょう。そして、下賛郷の中には高田里(たかだのこざと)がありました。わずか20年程度しか存続しなかったコザトの事例がこんなところに残っていたのです。

佐野の地域|Google Earth(跡ナビ編纂室編集)

この群馬郡に住む三家(みやけ)の一族には仏教の教えが浸透していました。碑文中に出てくる「知識」とは「仏の教えにもとづき寄進などを行う人々」のことを意味します。平たく言うと「仏教徒のボランティア」のことで、有名な事例では東大寺の大仏造立に尽力した行基は、この「知識」という仏教ボランティア集団を統率した僧侶です。碑文では、「知識」によって結びついた親族など9人の関係性が記されており、深く仏教に帰依していた様子がうかがい知れます。

金井沢碑系図

彼らは、「三家」と名乗っていることからも「佐野のミヤケ」を管理していた有力豪族に連なる一族だったのでしょうが、郡司や郷長に就いた形跡はなく国郡郷制のもとで重職を担う一族ではなかったようです。しかし、仏教に帰依し石碑を立てるほどの文化的教養と財力を持っていました。奈良時代の後半には墾田永年私財法によって土地の開墾が進み、一部の農民は郡司たちと並ぶほどの富と力を築き、やがて国司の勢力をも脅かすようになっていきますが、彼ら三家一族はそういった富裕な農民の一人になっていったのかもしれません。

基本情報

  • 指定:特別史跡「金井沢碑」
  • 住所:群馬県高崎市山名町
  • 施設:多胡碑記念館(外部サイト)