讃岐城山城|史書に記されなかった古代山城【瀬戸内の神籠石 Part3】

神籠石系山城は誰が、いつ、何のために築城したのか。前回は石城山城を通して「地方豪族が白村江の敗戦直後に逃げ城として築城した」とする説を見てきました。今回は讃岐城山城を通して、別の説を見ていきます。

未完成の古代山城

神籠石系山城は、北部九州で10ヶ所、瀬戸内海沿岸で6ヶ所の計16ヶ所が知られています。発見された遺構の状況については、ほぼ完周する形で土塁や石垣が残っている城跡もあれば、大部分の土塁が欠損している城跡や、土塁の形跡がなくただ列石のみ残された城跡など様々。このような状況から、一部の神籠石系山城は築城の途中で放棄され、そもそも完成していないのではないか、という考えが浮上します。

完成か未完成かを考えるための指標の一つが唐居敷(からいしき)と呼ばれる、門の柱に据えられる石製の門部材です。採石場から運ばれた石は、刳り込み・方立穴・軸摺り穴の3点が加工されて唐居敷として門に据え付けられます。

讃岐城山城ホロソ石
唐居敷と思われる刳り込みはあるが、方立穴や軸摺り穴は未加工。

しかし、神籠石系山城で発見される唐居敷はこの3点のいずれかの加工がなされていないものばかりです。これは、加工途中の唐居敷が放棄されたものだと考えられ、完形の唐居敷が見つからないことは門自体が未完成だったことを示します。門は城の要。門が未完成のままということは、城も未完成だったのではないかと考えられているのです。

ただし、唐居敷の加工の状況だけで、その城が未完成だったと結論づけることはできず、発掘調査が進めば完形の唐居敷が発見される可能性も捨てきれません。城の完成・未完成の検討には、建物跡の有無や城壁の巡り具合、土器や硯の出土状況など、様々な視点が必要です。

讃岐城山城

讃岐城山城は、香川県坂出市の城山(標高462m)に築城された神籠石系山城です。史書には記されていません。同じ讃岐国には朝鮮式山城の屋嶋城があり、667年に築城されたことが日本書紀に記されています。

讃岐城山城位置図|Google Earth(跡ナビ編纂室編集)

城山城は鉢巻型の山城で、城壁が山頂を取り囲むように巡っています。城壁は二重になっていて、その長さは内側の城壁で3.4km、外側の城壁で4.4kmです。外側城壁は、内側よりも後に築造されたものだと考えられています。

城門は内側城壁の北辺で発見されています。この城門からは瀬戸内海が一望にでき、城山城の要となる城門だったと考えられています。隅石には切石が使われていて、算木積みを彷彿とさせるような積まれ方をしています。

城門跡
土塁線の途中に石塁が築かれ、城門を形成している。現在はゴルフ場の通路になっており、礎石などは残っていない。
城門石塁裏の土塁
城門からの眺望

ここから内側城壁(土塁)を辿って南西に向かうと、水口を伴う石塁が残っていて、今でも水が流れています。ここにも城門が開いていたのではないかと考えられています。

水口
石塁には水口が開かれ、今でも水が流れている。左手には、城門のような石積みが残る。

さらに南西側には、大規模な石塁が残っています。車道によって分断されていますが、山頂に向かって斜面を這うように石塁が築かれていました。

石塁|山頂に向かう車道途中左手
石塁|山頂に向かう車道途中右手の急斜面

城山城では確実な建物跡は発見されていませんが、山頂広場には礎石と思われる巨石が無造作に転がっていて、建物跡を彷彿とさせます。

城山城山頂の巨石
讃岐城山城出土物|香川県立埋蔵文化財センター

そのほか、唐居敷や蹴放しと思われる巨石がいたるところに放置されていて、ホロソ石やマナイタ石などと呼ばれています。これら唐居敷には刳り込みの加工はあるものの方立穴と軸摺り穴が加工されておらず、途中で放棄されたものだ見られています。完成した唐居敷は発見されていません。

ホロソ石
唐居敷と思われるが、加工の途中である。
マナイタ石
城門の蹴放し(門扉を閉じたときの仕切り)と思われる。

「中大兄皇子・白村江敗戦後・唐軍防衛網の構築」説

神籠石系山城の築城の由来について、もっとも広く言われているのは「中大兄皇子が、大野城や基肄城と同じ時期に同じ目的で築いた」とする説です。663年、白村江の戦いで唐軍に敗れた中大兄皇子は唐軍の倭国侵攻に備えるために急ピッチで水城を築城し(664年)、長門に城を、筑紫に大野城と基肄城を築いた(665年)という内容が日本書紀に記さています。これと同じ時期に、広く北部九州と瀬戸内沿岸に神籠石系山城が築かれたと考えられているのです。

これら神籠石系山城がなぜ日本書紀に記されなかったのかは謎のままですが、もともと日本書紀はすべての事柄が記されたものではないとも言われています。その1つの事例が、667年に築かれた屋嶋城の記載です。日本書紀には「倭国(やまと)の高安城、讃岐国の山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築いた」と、屋嶋城だけ国名の下に山田郡という郡名が記載されています。これは、讃岐国には山田郡以外の郡にすでに城が築かれていて、その城と区別するためにわざわざ郡名が記載されたと考えられているのです。このもう1つの城こそ、神籠石系山城である城山城です。

讃岐城山城・屋嶋城位置図|Google Earth(跡ナビ編纂室編集)

こうして、屋嶋城以前に、史書に載らない山城が存在した可能性が出てきたことから、大野城や基肄城と同じ時期に中大兄皇子によって唐軍防衛のため多くの無名の城が築かれたのでないか。それが神籠石系山城ではないか、と考えられるようになったのです。

讃岐城山城をとおして「中大兄皇子・白村江敗戦後・唐軍防衛網の構築」説を見てきました。城山城では飛鳥時代末期と奈良時代の土器などが出土しています。しかし、発見されている唐居敷には、方立穴や軸摺り穴が加工されておらず、城門は未完成だったと考えられています。城壁も、北面の石塁や土塁に対して南面は未整備に近いとのことで、城自体が未完成だった可能性が指摘されています。つづいて、鬼ノ城をとおして「大宰・天武天皇時代・地方兵制の整備」説を見ていきます。

基本情報

見学のポイント

比較的容易に見学できるのは内側城壁のみで、山中深くに残る外側城壁は立ち入ることが困難です。また、城門や水口の見学には、高松カントリー倶楽部への事前申し込みが必要。見学の日時については希望にそえないこともあるようなので、ご注意ください。