古代宮都|王宮・王都を徹底解説!史跡と模型で見る、日本の都の移り変わり
古代、歴代の天皇は各地に自分の王宮を築きましたが、飛鳥時代の推古天皇以降、天皇の王宮は飛鳥を中心に築かれるようになります。王宮の周囲に都市的な機能が集まり「王都」と呼べるようなものが形成され始めるのもこの時代からでした。今回は王宮と王都(合わせて「宮都」)の変遷を追いながら、飛鳥時代から始まる古代国家への歩みを辿っていきます。
飛鳥京 592年〜
592年、崇峻天皇が蘇我馬子によって滅ぼされ、額田部皇女(推古天皇)が即位します。推古天皇は欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘で、蘇我馬子とは叔父・姪の関係にあり、当時絶大な権力を持っていた馬子の影響下に置かれていました。そのため、推古天皇が最初に王宮とした豊浦宮(とゆらのみや)は蘇我氏の邸宅をそのまま宮室としたようです。
現在、向原寺(こうげんじ)となっているその場所には、豊浦宮のものと見られる遺構が発見され、見学できるようになっています。ここで見ることのできる砂利敷や石敷は飛鳥時代の身分の高い居宅の特徴でしたが、当時はまだ礎石立ではなく掘立柱の建物でした。
推古天皇はこの後603年に小墾田宮(おはりだのみや)に移ります。小墾田宮は奈良時代になっても行宮(かりみや)として利用され続け、奈良時代のものと見られる墨書土器が出土した雷丘(いかづちのおか)の近くが推定地とされています。確たる遺構はまだ発見されていませんが「雷丘東方遺跡」と呼ばれています。
推古天皇は初めて遣隋使を送ったことで有名ですが、これは当時の東アジアで最も文明の進んでいた隋の国家制度を自国に取り入れるためでした。まだ「倭」と呼ばれて蕃国の扱いを受けていた日本は、この時から古代国家への脱皮を目指して歩み始めます。
豊浦宮や小墾田宮は現在の明日香村にあるものの、厳密には当時の飛鳥には含まれず、その辺縁にあたります。両宮からほど近い甘樫丘(あまかしのおか)に登り東側に臨める地域こそが当時の飛鳥になります。以降、この飛鳥に王宮が建設され時代の中心地になっていくのですが、思った以上に小さなスペースに感じるでしょう。甘樫丘から北西側に臨める藤原京の地と比較すると一層その感覚が強まると思います。
推古天皇の没後630年に即位したのは田村皇子(舒明天皇)で、飛鳥の岡本に岡本宮を築きました。これが飛鳥内部に築かれた最初の王宮です。以降、岡本には、皇極天皇の板葺宮→斉明天皇の後岡本宮→天武天皇の浄御原宮と、4代(3人)の天皇によって4つの王宮が重なって築かれていきました。
現在「飛鳥宮跡」として国史跡に指定されている場所には斉明天皇の後岡本宮の遺構が表示されています。この頃、飛鳥には庭園・寺院・工房・儀式場などが整備され、「飛鳥京」とでも呼べそうな景観を形成していたようです。
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飛鳥宮跡|4つの王宮が重なる場所。飛鳥時代の中心地はここだった!
飛鳥宮跡は奈良県高市郡にある国史跡。飛鳥時代に築かれた王宮跡です。この場所には岡本宮、板蓋宮、後岡本宮、浄御原宮の4つの王宮が築かれました。このうち後岡本宮の内郭や浄御原宮の東南郭の遺構が見つかっています。
しかし、舒明天皇から天武天皇までの間に王宮は飛鳥にあり続けたのではなく、何度も別の場所に移っていきます。舒明天皇の岡本宮はわずか6年で焼亡したため、その後は飛鳥から外れた場所に百済宮が築かれました。百済宮の遺構は発見されていませんが桜井市にある国史跡「吉備池廃寺跡」の西隣が推定地となっています。
乙巳の変(645年)後に即位した孝徳天皇も早々と飛鳥を去り、難波の地に王宮を築きます。この難波宮では広大な朝堂院が整備され、上級官人による政務や外国使節との饗宴など公的な儀式が行われたようです。
このような天皇の威厳を示す空間が整備されたのは難波宮が初めてで、外交に便利な難波の地が選ばれた点も含めて、非常に先進的な王宮でした。孝徳天皇のときの難波宮を「前期難波宮」と呼びます。
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前期難波宮|孝徳天皇の長柄豊碕宮。大阪"難波"で始まる律令国家への第一歩
難波宮跡は大阪府大阪市にある国史跡。2層から成る遺跡で、下層は飛鳥時代に孝徳天皇が築いた難波長柄豊碕宮(前期難波宮)の遺構です。広大な朝庭と14棟の朝堂から成る朝堂院が特徴で、孝徳天皇が目指した律令国家・日本の象徴となりました。
飛鳥で政務を執っていた中大兄皇子(天智天皇)も、671年には飛鳥から遠く離れた近江の地に大津宮を築き、そこで即位しました。現在の「錦織遺跡」が王宮の所在地で、内裏と見られる遺構が発見されていますが、住宅地に囲まれているため発掘は限定的です。672年の壬申の乱で近江朝廷側に勝利した大海人皇子(天武天皇)は飛鳥に浄御原宮を築き、王宮は再び飛鳥に戻りました。
藤原京 694年〜
天武天皇は飛鳥で政治を行いつつも、新しい都を計画していました。前述のとおり飛鳥の地は手狭で、天皇の御する王都として相応しい立地ではありません。そこで、飛鳥の都から北西側に都を拡張させようと「新益都(あらましのみやこ)」の建設に着手します。しかし天武天皇は志半ばで没したため、後に即位した持統天皇が遺志を引き継ぎ、18年の歳月を経て完成したのが藤原京です。
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藤原宮跡|"律令国家・日本"を示す王宮跡。史上初の都城はこうして完成した!
藤原宮跡は奈良県橿原市にある特別史跡。飛鳥時代末期に築かれた藤原京の王宮跡です。藤原京は天武天皇と持統天皇によって築かれた史上初の都城で、その中央に朝堂院・大極殿院・内裏などを有する藤原宮が置かれました。持統・文武・元明3代の天皇によって利用されました。
藤原京は日本で初めて条坊制の敷かれた唐風の都です。条坊制とは東西方向の「条」と南北方向の「坊」によって区画された都市計画のことで、その規模は東西・南北それぞれ5.2kmと想定されています。
京の南端からは朱雀大路が伸び、中央に位置する王宮へと達していました。この王宮こそが藤原宮です。藤原宮の諸施設は日本で初めて礎石立の建物として建設されました。朝堂院とともに初めて大極殿院も整備され、手本としてきた東風の王宮へと様変わりしたのです。
藤原宮では持統天皇、文武天皇、元明天皇の3代の天皇が世を治めました。これまでは天皇の代ごとに王宮を建て直す慣わしがありましたが、1つの宮室を複数の天皇が継続して王宮とするようになるのも藤原宮からでした。
この頃から「日本」という国号が用いられたようで、日本は古代国家としての姿を確立することができました。推古天皇が初めて遣隋使を送った時からおよそ100年の歳月が経った頃のことです。
平城京 710年〜
こうして日本国として新たな歩みを始めたものの、香具山・畝傍山・耳成山(大和三山)に囲まれた藤原京は王都としてはやはり手狭でした。そこで元明天皇はより広い土地を求めて平城(なら)への遷都を決意します。
710年に遷都成った平城京では、藤原京と異なり京の北端に王宮が配置されました。その入口には朱雀門が置かれ、朝集殿院、朝堂院、大極殿院が一直線に並び、大極殿院の真ん中には藤原宮から移設された大極殿が佇んでいます。
藤原宮では大極殿院と一体化していた内裏も、平城宮では東側に分離します。将来の天皇として育てられていた首皇子(聖武天皇)のため、藤原宮での不備が解消され、天皇の威儀に相応しい王宮がここに整いました。聖武天皇のために形成されたこのころの平城宮を一般的に「前期平城宮」と言います。
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前期平城宮|聖武天皇のために築かれた平城京の王宮 Part1
平城宮跡は奈良県奈良市にある特別史跡・世界遺産。奈良時代の都・平城京における王宮跡です。中央区では第一次大極殿や大極門が復元されています。この場所(前期平城宮)から奈良時代前半における聖武天皇の歴史が始まりました。
元正天皇ののち724年に即位した聖武天皇は平城宮とは別に難波宮の再建も始めます。孝徳天皇の難波宮は焼亡していましたが、残っていた一部の建物はなお外交施設として使用され続けていました。難波宮は瀬戸内海とも近く、外国使節のもてなしには便利な立地です。聖武天皇はこうした利便性に目をつけ、荒廃していた掘立柱建物の王宮を、礎石立の建物に一新し副都として再整備することにしたのです。この頃の難波宮を「後期難波宮」と言います。
このような副都構想を掲げた聖武天皇でしたが、突如として迷走し始めます。首都である平城京を捨て、恭仁へと遷都したかと思えば、この難波をも首都とし、さらには紫香楽にも遷都するなど世の中は混乱状態となりました。
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後期難波宮|聖武天皇が再建した副都。藤原式家との奇妙な関係とは?
難波宮は大阪府大阪市にある国史跡。2層から成る遺跡で、上層は奈良時代に聖武天皇が築いた後期難波宮の遺構です。独立した大極殿院が特徴で、その中央には巨大な大極殿の基壇跡が復元されています。
都が再び平城に戻ったとき、平城宮には主要な建物がありませんでした。大極殿を始め、多くの建物が恭仁京へと移されていたからです。早急に平城宮の再建を開始する必要がありましたが、もはや聖武天皇には政治を行う意思はなく、出家の意を固め娘の阿部内親王(孝謙天皇)に譲位しました。
孝謙天皇による「後期平城宮」では、空き地となっていた前期の大極殿院に西宮が建設され、太上天皇が居所とするようになりました。聖武太上天皇も一時ここに住んだようです。大極殿はその東隣に建設され、再び内裏と近接するようになります。しかしこの頃から大極殿は限られた儀式にしか用いられなくなり、内裏が主要な政務の場になっていきました。
また東院と呼ばれる宮東側の張り出し部分に、庭園が整備されたり建物に緑釉瓦が葺かれたりして豪華な設えになったのも後期平城宮の特徴です。淳仁天皇を廃位し重祚した称徳天皇はこの東院庭園を好み頻繁に宴を催したそうです。
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後期平城宮|聖武天皇のために築かれた平城京の王宮 Part2
平城宮跡は奈良県奈良市にある特別史跡・世界遺産。奈良時代の都・平安京の王宮跡です。東区では内裏跡や第二次大極殿の基壇が復元されています。この場所(後期平城宮)で奈良時代後半における聖武天皇の歴史は幕を閉じます。
長岡京 784年〜
称徳天皇が没すると天武系の皇統は途絶え、代わって天智系の光仁天皇が即位し、桓武天皇に引き継がれると新たな皇統が確立しました。桓武天皇が最初に着手したのは、自分に相応しい新たな都を造ることです。選ばれた場所は木津川・宇治川・桂川が淀川に合流する交通の要衝、長岡でした。
とはいえ造都にはなにかと反発があるもの。そこでまずは聖武天皇が造った難波宮の移築から始め、ある程度長岡宮の建設が進んだ段階でおもむろに遷都を宣言する方法をとることとします。こうした策により難波宮の大極殿が長岡へ移築されました。
しかし河川交通の便が良いということはそれだけ水害に晒されやすいということでもあります。洪水に悩まされた桓武天皇は再び都を遷す決意をし、平安京の建設が始まりました。長岡京は784年から794年までのわずか10年しか存続しませんでした。
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長岡宮跡|桓武天皇の最初の王宮。平城京から平安京へ遷都した理由とは?
長岡宮跡は京都府向日市の国史跡。奈良時代末期の長岡京の王宮跡です。朝堂や大極殿の遺構が見つかりました。794年に桓武天皇が平安京へ遷都したため、長岡京はわずか10年で廃都となってしまいます。
平安京 794年〜
平安京の都市計画は基本的には平城京と変わりませんが、大路の位置に改良がなされより整然とした都市開発が行われました。
王宮は京の北端に配置され、この南東隅部の向かいに「神泉苑」と呼ばれる天皇の庭園が置かれました。現在残っている国史跡「神泉苑」の姿からは想像もできませんが、当時はいまの8倍の広さがあり桓武天皇のお気に入りの場所だったそうです。
平安宮の遺構は大部分が地中に埋まったままですか、発掘されている遺構として豊楽殿があります。豊楽殿は平安宮で初めて整備された施設で、大極殿の西側に位置し、主に公的な饗宴に利用されました。
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平安宮跡|大極殿と内裏はどこにあった?現在の京都で平安京の痕跡を辿る
平安宮跡は京都府京都市にある国史跡。平安時代の平安京の王宮跡です。内裏や豊楽院の遺構の一部が発見されました。周辺には桓武天皇ら歴代の天皇が愛した神泉苑が残るほか、羅城門や応天門など平安京の痕跡を辿ることができます。
しかし、大極殿や豊楽殿で行われていた公的な政務や儀式は国の財源が厳しくなるのに伴い、しだいに規模や頻度が縮小されいつしか内裏で行われるようになります。これに伴って内裏以外の諸施設は荒廃していきました。
内裏は天皇の私生活が行われる場所だったので、公的な政治と私的な生活とか混在するようになり、それと連動するように殿上人や蔵人などの私設秘書が誕生し一部の上級貴族が朝廷内で幅を利かせるようになります。古代国家を支えていた下級官人たちは窮乏しはじめ、これら上級貴族に仕えなければ生活を維持できなくなっていきました。
日本が古代国家としての威容を保てたのは9世紀頃までと言います。推古天皇の時代から宮都の整備とともに確立してきた古代国家としての姿は10世紀に入って衰退を始め、やがて平安京は解体し「京都」と呼ばれる新たな時代に突入していくのです。
参考文献
『飛鳥の宮と藤原京 よみがえる古代王宮』(2008年初版)
著者:林部均(国立歴史民俗博物館 2011年時点)