興福寺|藤原北家が繁栄の礎を築くまで
興福寺 藤原鎌足
藤原氏の歴史は中臣鎌足から始まります。中臣氏は祭祀に携わる一族でしたが、鎌足は神祇ではなく政治の道を歩み始めます。中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに乙巳の変や大化の改新によって政治体制を変革し、国家の中央集権化を進めました。
2人は「君臣でありながら、師友でもあり」と言われるほど深い関係を築いていたようです。内臣という職につき、中大兄皇子の側近として活躍した鎌足でしたが、中大兄の即位を見届けたあと病に伏してしまいます。天智天皇は鎌足の功績に報いるため、鎌足に「藤原」姓を下賜。こうして藤原氏が誕生しました。
鎌足の妻鏡王女は夫の平癒を祈願して山科の地に山階寺を創建しましたが、669年に鎌足は薨去。山階寺はのちに厩坂寺に名称を変えて藤原京に移されました。のちの興福寺です。
中金堂 藤原不比等
藤原鎌足と鏡王女との間には、不比等という優秀な若手政治家が育っていました。689年31歳で政治の表舞台に登場した不比等は、持統天皇とその皇子草壁に仕えて大宝律令の編纂に深く携わって以降、政治中枢へ駆け上っていきます。皇位が文武天皇、そして元明天皇に引き継がれる中、不比等は藤原京から平城京への遷都を指揮。ソフト面(法律)とハード面(王宮)の両方から律令体制の整備を推進しました。
藤原京の厩坂寺は、平城遷都の際に不比等によって今の地に移転し、興福寺に名を改めます。このとき中金堂が建立され、興福寺の歴史が正式に始まりました。
北円堂 藤原宮子
不比等には、武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4人の息子と、宮子、光明子ら何人かの娘がいました。不比等は藤原家の一族が将来も繁栄していくように2つの布石を打ちます。1つは「蔭位の制」です。これは、高官の子や孫が若くして高位に就ける仕組みのこと。不比等は、この制度を自身が編纂した大宝律令に仕込みます。不比等の父鎌足は正一位という最も高い位を賜っていたことで、不比等の息子(鎌足の孫)たちは最初の官職から高い地位が準備されていたのです。
もう1つの布石は、娘たちを天皇の後宮に入れることです。娘の産んだ皇子が天皇になることで外戚の地位を獲得し、天皇に対して影響力を行使しようとするものでした。不比等は宮子を文武天皇に、光明子を皇子首(のちの聖武天皇)に送り込みました。
こうして子孫の繁栄を見据えて布石を打った不比等は、720年に病没。その一周忌に、元明太上天皇と元正天皇の詔によって建立されたのが北円堂です。
東金堂 藤原四兄弟
不比等の没後、政界を牽引したのは不比等の4人の息子たちです。長男の武智麻呂は、大学頭や図書頭を歴任した学識派で、首皇子の養育係も務めました。次男の房前は、父不比等に見初められ、兄に先んじて政権中枢に昇進。三男の宇合は、遣唐使として渡唐し、帰国後には蝦夷征圧のために東北に駐軍。四男の麻呂は京職大夫として平城京内の行政を担当した一方、陸奥国から出羽国までの直通道路の開削事業を指揮するなど、幅広い分野で活躍しました。これら4兄弟の系統はそれぞれ南家、北家、式家、京家と呼ばれます。
4兄弟が政権中枢に躍り出ようとする724年、元正天皇が首皇子に譲位し、聖武天皇が誕生します。東金堂は皇位についたばかりの聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈願して726年に建立したものです。
五重塔 藤原光明子
不比等の娘光明子は、元明天皇からの強い後押しもあり聖武天皇の夫人になって、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)を出産。729年には皇后の位につきました。天皇の正妻である「皇后」は天皇家の血が流れる女性のみがつける位でしたが、光明子は天皇家以外の女性として初めて立后し、藤原氏が皇親に準ずる扱いを受ける契機になりました。不比等の死後、光明皇后は父の遺産や邸宅を受け継ぎ、庶民の救済施設や仏教寺院を整備して社会事業を推進しました。興福寺の五重塔は、その事業の一環として730年に建立されたもです。
西金堂 藤原仲麻呂(南家)・真楯(北家)
西金堂も、734年に光明皇后によって建立されたものです。いまは建物がなく、西金堂と刻まれた石灯籠が立つのみですが、ここに安置された仏像の多くは国宝館に移され現存しています。八部衆像(阿修羅像など)や十大弟子像はもともと西金堂のために造られた仏像群です。
この頃、九州で発生した疫病が全国に拡大していました。藤原4兄弟はこの疫病に感染して相次いで死去し、不比等の息子は全滅してしまいます。期せずして、時代は彼ら4兄弟の息子、鎌足から数えて第4世代に移りました。ここから政権を握ったのは、南家武智麻呂の息子仲麻呂です。仲麻呂は、光明皇后を後ろ盾に権勢を強め、東大寺の大仏造立事業などに携わり、存在感を高めていきます。
一方で、その影に隠れて目立たない存在でしたが、北家房前の息子真楯も聖武天皇にその才能を愛されたとのこと。仲麻呂からも牽制されていることを悟った真楯は、対立を避けるため自宅にこもって書を読みふけていたとか。その後、仲麻呂は乱を起こし滅んでしまうため、4家の勢力は再び拮抗状態になっていきます。
南円堂 藤原内麻呂(父)・冬嗣(子)
聖武天皇は749年に孝謙天皇に譲位。孝謙は重祚して称徳天皇となりますが、子がいなかったため、皇統は光仁天皇、そして桓武天皇へと移っていきます(781年)。式家良継(宇合の息子)は娘の乙牟漏と姪の旅子を桓武天皇の後宮に送り込んでいました。やがて乙牟漏は皇后になり、式家の勢力が急激に強まります。第5世代の式家種継は桓武天皇に重用され、長岡遷都を指揮しました。
同じく第5世代の北家内麻呂(真楯の息子)は式家に押されつつも桓武の次の代に布石を打っていました。長男真夏を安殿親王(後の平城天皇)に、次男の冬嗣を神野親王(後の嵯峨天皇)に側近として送り込んでいたのです。平城天皇の治世は短命に終わりましたが、嵯峨天皇の治世は14年に及び、冬嗣は初代の蔵人頭(天皇の私的な秘書のような存在)に任じられるなど、嵯峨天皇に重用されます。嵯峨と冬嗣は自身の息子と娘を互いに娶せるなど、公私ともに深い関係を結びました。内麻呂の戦略が功を奏したのです。
813年、内麻呂の追善供養のために冬嗣は南円堂を建立。これ以降、北家の繁栄が始まります。
三重塔 藤原良房
冬嗣の息子良房は、父が結んだ天皇家との姻戚関係を足がかりに、嵯峨、淳和、仁明、文徳の各天皇のもと異例のスピードで出世。この頃には政権の中枢を藤原北家が占めるようになっていました。良房の娘明子は仁明天皇の女御となり、清和天皇を出産。良房は外祖父の地位を獲得します。857年に太政大臣にまで昇り詰め、翌年、9歳の清和天皇を補佐するために人臣初の摂政に任じられました。これを機に藤原北家の繁栄の礎が固まり、以後、良房の系統から歴代の摂政・関白を輩出するようになり、道長や頼通など摂関政治の隆盛を迎えます。藤原北家は平安時代前期から中期までのおよそ200年間に渡って朝廷内に君臨し続けました。
しかし、平安時代後期の院政期に入ると、良房の末裔である忠通の息子たちは九条家と近衛家に分かれ、藤原北家は新たな時代へと突入していきます。興福寺の隅でひっそりと佇む三重塔は忠通の娘聖子が1143年に建立したものです。
藤原氏の氏寺である興福寺は、藤原氏の一族の発展とともに伽藍が増長していきました。その中でも、冬嗣の建立した南円堂は「この建立以降、藤原北家の繁栄が始まった」と藤原氏からの強い信仰を集めたとされます。堂宇の多くは災害や兵火で何度も焼亡し創建時のものは残っていませんが、焼亡の度に再興され、藤原氏の歴史とともにいまに至ります。
基本情報
- 指定:国史跡「興福寺旧境内」、世界遺産「古都奈良の文化財」
- 住所:奈良県奈良市登大路町
- 施設:興福寺(外部サイト)