釧路川流域チャシ跡群|アイヌ人の謎多き城【道東のチャシを歩く Part1】

北海道では、600年代に起こった擦文文化が全域に広く浸透していき、600年程の間、擦文時代を形成しました。そして、1200年代(鎌倉時代)からアイヌ文化(ニブタニ文化)へと移り変わっていきます。擦文時代を象徴する擦文土器や竈付き竪穴住居は徐々に姿を消していき、代わりに漆器や鉄鍋、平地住居が広がっていきました。このアイヌ文化の時代を象徴する史跡がチャシと呼ばれる土木遺跡です。今回の史跡ウォーカーではこのチャシを見ていきます。

チャシ

チャシの多くは海・川・湖に突き出した丘陵などの自然地形を利用して造られており、壕によって簡易な区画がなされています。北海道内では500カ所程のチャシが確認されていますが、チャシそのものが「何のために築かれたのか」「誰が築いたのか」などほとんど分かっていません。特に用途については、祭祀場、談合の会場、城塞などの説があり、時代とともに徐々に多様化していったのではないかと見られています。江戸時代以降は本州側の記録が残っており、戦争のときにアイヌ人が立てこもった場所として記されていることから、城塞の用途があったのでしょう。もともと聖域として集落の祭祀を行う場だったチャシが、集落内の重要事項を話し合って決定する談合の場となり、戦評定を行うような戦略拠点となっていったのではないかと考えられています。

チャシは道東域に数多く造られており、釧路地域周辺もその中心的なエリアです。特に、屈斜路湖から流れる釧路川の流域に形成されたチャシ11箇所が国指定の史跡になっています。上流側から弟子屈町、標茶町、釧路市の3地域にまたがっています。今回はそのうちの最も下流側、釧路川河口付近に築かれた2つのチャシを歩きます。

ハルトリチャランケチャシ跡

鶴ケ岱から春採湖に向けて南側に突き出た丘陵に築かれたチャシです。以前は「鶴ケ岱チャランケ砦跡」とも呼ばれていました。北側から陸続きになっており、チャシに登ることができます。

ハルトリチャランケチャシ跡
北側から春採湖に向けて突き出した半島状の丘陵に築かれた(西側から撮影)
ハルトリチャランケチャシ跡入り口部分
北側から陸続きになっており、頂部に登れる。
二重の壕
入り口からまっすぐ登った頂部手前に壕がある。外側の壕は熊笹に覆われて見えにくい。

楕円形の頂部を囲うように二重の壕が巡らされていました。頂部の規模は南北15m東西30m。東側では竪穴が7基発見されたようです。この丘はトーモシリ(湖の中島)と呼ばれいて、トーコロカムイ(湖の神様)の遊び場として伝わっていることから、もともと神聖な場所として祭祀などに利用されていたのでしょう。その後、チャランケ(談合)と呼ばれるようになり、話し合いの場として使われるようになったのかもしれません。

頂部
写真奥側が竪穴が発見されたという東部に当たる。現在は埋め戻されたのか、痕跡を確認することができなかった(西側から撮影)
春採湖
チャシ跡から南側に広がる春採湖。現在はかなり汚染化が進んでいるが、昔は「湖の神様が遊ぶ場所」として伝わる。
内側の壕(入り口を背に左手)
内側の壕(入り口を背に右手)

モシリヤチャシ跡

ハルトリチャランケチャシ跡から鶴ケ岱の住宅地を登り、釧路川に向かって緩やかな傾斜を下るとモシリヤチャシが見えてきます。

モシリヤチャシ跡|北海道教育大前の久寿里橋通りから撮影
左側の小山が主郭、右側の小山が副郭。主郭の標高は18m。

1750年前後に釧路地域に勢力を張っていたトミカラアイノという人物が築造したそうです。釧路川に東側から突き出た丘陵を利用してつくられています。主郭(南側)と副郭(北側)の大きく2つの小山に分かれていて、主郭は3段、副郭は2段から成っています。

主郭
最上段はやや隠れて見えにくいが、3段から成っている。
副郭
複雑な造成が成されている。副郭頂部は木の陰に隠れて見えない。
主郭頂部
主郭と副郭の間には深い壕がある(副郭から撮影)
副郭頂部
主郭に比べて標高は低いが、面積は広い(主郭から撮影)

一見すると古墳のようですが、塹壕(のようなもの)が複雑に巡らされており、頂部には簡単に寄りつけないようになっていました。しかし、同時代の城郭と比較すると「曲輪」と呼ぶにはかなり手狭で、多くの兵を収容したりチャシ内に籠もって戦ったりというような使い方はあまり想像できませんでした。

モシリヤチャシ跡東面
畝状竪堀にも見える複雑な造成がなされている。塹壕のような用途だろうか。

主郭頂部からは付近一帯を遠望することができ、釧路川の河口域もよく見えるため、戦時に使用する首長館や監視塔のような役割がメインだったのではないでしょうか。周囲からもひときわ目立つシンボルのようなものとして、兵たちをチャシ下に参集させ、ここから指揮をとったのかもしれません。

釧路市街
主郭頂部からは釧路川の河口域もよく見える。

造営したトミカラアイノの後は、その子孫であるタサニセやメンカクシなどもこのチャシを利用したことが江戸幕府側の記録に残っており、造営者や利用者の名前が分かっている稀有なチャシとのことです。タサニシは、1789年に起こったクナシリ・メナシの乱の時期に釧路地域のアイヌ勢力の首長でしたが、この頃の釧路はアイヌによる独立勢力ではなくすでに幕府の支配下に組み込まれていたようです。チャシ上にどのような建築物があったのかは不明ですが、1855年の記録ではすでに利用されておらず、いまのような状態になっていたことが窺えます。

クナシリ・メナシの乱の舞台となったのは根室半島でした。ここから東に向けて車で2時間半の場所です。次に、根室半島チャシ跡群を見てみます。

基本情報

  • 指定:国史跡「釧路川流域チャシ跡群」
  • 住所:北海道釧路市春湖台、城山

見学のポイント