毛越寺・観自在王院|平泉に浄土庭園現る!奥州藤原氏による"仏国土"開発

奥州藤原氏の誕生
平安時代後期から末期にかけて、北東北に君臨した一族がいました。清衡(きよひら)→基衡(もとひら)→秀衡(ひでひら)→泰衡(やすひら)の4代による奥州藤原氏です。
この一族は「平将門の乱(935〜940年)」で名を馳せた藤原秀郷の末裔にあたり、秀郷流藤原氏の5代目頼遠(よりとお)か6代目経清(つねきよ)のときに、陸奥国に土着したと見られます。
経清の時、北東北にあたる陸奥国と出羽国は、天皇(朝廷)の支配の及ぶ領域ではありましたが、その実権の多くは在地の豪族が担っていました。陸奥国では安倍氏が奥六郡を、出羽国では清原氏が仙北三郡をと、それぞれ国内の要地を抑えていたのです。
この安倍氏と清原氏が争ったのが前九年合戦(1052〜1062年)です。この合戦で安倍氏は滅び、安倍氏に付いた藤原経清も討たれてしまいます。経清の息子・清衡(当時6歳)は、仙北三郡に加えて奥六郡をも支配するようになった清原氏に引き取られ、当主・清原武貞の養子として育てられることになりました。
しかしその20年後、清原氏内部で争いが起こり、後三年合戦(1083〜1087年)が勃発します。清原氏の嫡子・真衡(さねひら)、異母弟にあたる清衡、家衡(いえひら)との3兄弟による戦争でした。この合戦で清衡は妻子を失ってしまいますが、源義家のら介入もあって勝利を納めます。清原氏唯一の生き残りとなった清衡は、秀郷流藤原氏の末裔というブランドも手伝い、清原氏の遺領として仙北三郡と奥六郡をそのまま引き継ぐことになりました。清衡33歳のときです。
清衡は改めて藤原氏を名乗り、奥州藤原氏がここに誕生することになりました。都から遠く離れた東北の地に藤原氏の名で君臨する一族があったのは、こうした激しい戦争の結果だったのです。
初代清衡から始まる平泉進出
清衡は奥羽の支配を固めるため都との関係を強化する戦略をとり、藤原摂関家に東北産の馬を貢いだり荘園を寄進したりしました。中央との結びつきを強めながら約20年かけて奥羽の支配を完成させた清衡は、本拠地を江刺(岩手県奥州市)から平泉へ移すべく都市開発に着手します。
平泉は南を太田川、東を北上川、北を衣川、西を関山丘陵に囲まれた要害の地です。しかしこの平泉の選地は軍事上のメリットだけでなく、衣川の南側に拠点を移したことに重要な意味がありました。当時、衣川には関が置かれ、衣川の南側は陸奥国府の管轄、北側は同じ陸奥国でも「奥六郡」と呼ばれ鎮守府の管轄とされており、北側の地がまだまだ「鎮守」の必要な紛争地帯として認識されていたのです。その境となる衣川を越えたということは、奥六郡が軍事拠点の不要な平和な地になったことを示すだけでなく、清衡の威光が奥六郡をこえて陸奥国全土へ広がりはじめていることをも示していました。

写真左手から衣川が流れ、右手の北上川に注ぐ。この衣川の北側が奥六郡。
この衣川を懐にいただく関山丘陵に平和の象徴として建立されたのが中尊寺です。誰もが聞いたことのある金色堂は、中尊寺建立当時から現存する唯一の遺構で、1124年に完成しました。内外に押された純金箔の放つ光には、にわかに権力を握った成り上がり者のギラつきを微塵も感じず、繊細さや優しさをたたえています。

本尊を阿弥陀仏とし、金箔や螺鈿細工など当時の工芸技術の粋を集めた仏殿は、極楽浄土そのものを再現したものとされる。
金色堂須弥壇に納められた清衡の遺骸は、手が小さく線の細い身体だったといいます。中尊寺の落慶供養(1126年)に際して清衡が捧げた願文には、前半生の戦争により父と妻子を失った悲しみを乗り越え、犠牲になった多くの命の救済と北東北への平和の到来を祈る気持ちに溢れていました。
2代基衡が目指す”仏都”平泉の開発
中尊寺落慶の2年後、清衡は73歳で死去しました(1128年)。あとを継いだのは、後妻との間に生まれた基衡です。2代目・基衡は奥州藤原氏の隆盛をさらに推し進め、「その勢力は父親を凌ぎ、奥羽両国を管領する。国司の権威はないようなのものである」と言われたほどでした。中尊寺金色堂須弥壇に納められた基衡の遺骸は、父と異なり、太い首に逞しい胸板だったと言われ、威風堂々とした2代目の姿を彷彿とさせます。
基衡は父・清衡の仏教政策も受け継ぎ、平泉を本格的な仏都へと開発していきます。その一環として”平泉のランドマーク”金鶏山(標高約100m)の南麓に建立されたのが毛越寺(もうつうじ)です。毛越寺は当時「吾朝無双(わがちょうむそう)」とも評された大規模な寺院で、中尊寺をも凌駕したと言います。

正面に大泉ヶ池が広がる。
当時の遺構の残る毛越寺境内を見ていきましょう。まず南大門をくぐると、目の前には大泉ヶ池が広がっています。池の真ん中には中島が配されています。ここから中島まで、中島から対岸まではかつて橋がかかっていました。

玉石を積み上げることで築かれた中島。当時は2本の橋によって対岸と結ばれていた。
右手(南東側)には、汀がゆるやかな曲線を描き、その先には出島が伸びています。出島は大小の石により荒磯(ありそ)風に仕上げられ、目線の先には立石が配されています。


左手(南西側)には築山があります。池泉を中心とする平安時代の庭園では、石で山を表現する技法は発展途上でした。当時「仮山水」とも記された水と草木を使わないこの技法は、のちに「枯山水」として室町時代を代表する庭園様式となっていきます。

大泉ヶ池の対岸北西側に嘉祥寺(かしょうじ)がありました。これは毛越寺の前身となる天台寺院です。平安時代の創建で、のちに基衡が堂宇を再建したと考えられます。

基壇と礎石が残る。
池の北側中央には、円隆寺の金堂がありました。円隆寺とは毛越寺のもとの寺名だそうで、先にあった嘉祥寺を含みこむ形で、毛越寺と呼ばれるようになったのでしょう。基衡はこの円隆寺本尊の製作を都の仏師である雲慶に依頼しました。あまりの出来栄えのよさに、ときの”治天の君”鳥羽が自分のもとに置いておこうとしたため、基衡は七日七夜、仏堂に籠って念仏を唱えたと言われ、その甲斐あって仏像は金堂に安置されました。この仏像は薬師如来だったと伝わりますが、円隆寺の金堂とともに焼失してしまます。

基壇と礎石が残る。本尊は薬師如来。鎌倉時代に焼失したとされる。
金堂の左右から伸びる翼廊は途中で苑地へ向かって直角に曲がり、西側先端には経楼が、東側の先端には鐘楼が取りついていました。

池に面する先端には経楼が取りつく。

円隆寺翼廊東側の先端に取りついていた。
池の北東側では鑓水(やりみず)が発見されました。平安時代の鑓水の遺構としては最大規模のものと言われます。玉石が敷かれ、ところどころに景石が配されていました。

曲水の宴が催されたこの鑓水は、大泉ヶ池につながっています。北側からも池を見てみましょう。前述しましたが、中島を仲立ちにして、南北の両岸は橋で繋がっていました。いまでも池の中に残っていると橋脚の間隔は、橋の下を船が通航できるようになっているそうです。曲水の宴や船遊びなどが行われたこの苑地は、平安時代の寝殿造りの庭園をも彷彿とさせるのです。

玉石による州浜の形成は平安時代を代表する庭園技法。
毛越寺の東門から東隣を見やると、玉石の敷き詰められた広場があり、ここには牛車を止める車宿(くるまやどり)がありました。

写真左手(西側)は毛越寺、右手(東側)は観自在王院。車宿には身分の高い者の牛車が停められた。毛越寺東門、観自在王院西門があり、基衡夫妻の日常的な出入り口だったとされる。
この広場を挟んでさらに東側には、1157年に没した基衡を偲び、妻が建立した観自在王院(かんじざいおういん)がありました。舞鶴が池を中心に大阿弥陀堂と小阿弥陀堂を北側に配する浄土庭園が作られました。池の西側には見事な滝石組みも残っています。

写真右手は中島の一部。左手には滝石組が見える。
毛越寺南面と観自在王院南面では東西大路の跡が見つかりました。基衡の時代、この大路をメインストリートとして平泉は仏都にふさわしい姿へと開発が進んでいったと見られています。初代清衡の中尊寺建立から始まった平泉への進出は、2代目基衡の時代に大きく前進し、平泉での仏都開発へ展開していきました。基衡の死後、奥州藤原氏の隆盛は3代目秀衡へと受け継がれていきます。
基本情報
- 指定:特別史跡「毛越寺境内」・世界遺産「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群ー」
- 住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉大沢
- 施設:毛越寺(外部サイト)

