日本建築|復元された古代建築を巡る【奈良時代編 Part2】
平成から令和にかけて、奈良市内の寺院や宮跡では多くの建物が復元されました。現存する奈良時代の建築は時代の流れの中で修復や改良がなされており、奈良時代当時の見た目とは異なってきていますが、復元建物では、奈良時代の建築様式が現代の研究水準によって忠実に再現されています。奈良市内に点々と立地している復元建物を辿っていけば、奈良時代当時の雰囲気を十分に体感することができます。
門
平城宮朱雀門・大極門・東院南門
朱雀門は1998年(平成10年)、大極門は2022年(令和3年)に再建されました。平城京内で最も格式の高い門です。発掘によると、朱雀門は藤原京からの移転、大極門は平城宮創建時の新設であることが分かっています。そのため、朱雀門は飛鳥時代末期の様式、大極門は奈良時代初頭の様式だったのではないかと考えられています。
2つの門とともに入母屋造り二重の五間門。大極門の方がやや小振りです。大きな違いは上層にあり、朱雀門は中央3間が連子窓である一方、大極門は中央1間が扉になっています。また、朱雀門の手すりには人字形割束が用いられています。これらの違いは法隆寺金堂(飛鳥時代末期)や薬師寺東塔(奈良時代初頭)の現存建築を参考にしており、時代の細かな違いを再現しているとのこと。
東院南門(通称「健部門」)は1994(平成6)年の再建で、朱雀門や大極門より格式の下がる単層の切妻造り。薬師寺中門もこの様式で再建されており、大寺院の中門にはこのような門が建っていたのでしょう。
回廊
薬師寺回廊
1995(平成7)年に、複廊として再建。複廊とは壁を挟んで両側に通路がある2間の回廊のこと。移転前の藤原京では単廊でしたが、平城京への移転時に複廊になったと考えられています。屋根は大棟1本と小棟2本の三棟造り。興福寺の金堂回廊も複廊の基壇が復原されており、東大寺の東塔院の回廊も複廊であったことが最近分かりました。この時代の大寺院は複廊が基本だったのです。
金堂・大極殿
興福寺中金堂
2018(平成30)年の再建。寄棟造りで、桁行7間梁間4間の周囲に庇が巡る建築。細かい意匠は唐招提寺の金堂を参考に、奈良時代と同じ規模で復原されました。唐招提寺金堂は前面だけが吹放しになっていますが、興福寺金堂では周囲に裳階が巡り四方が吹放しになっています。2層の堂々たる金堂からは藤原氏の当時の威勢を感じられます。
平城宮大極殿
2010(平成22)年の再建。現代の学術水準と建築技術を持って築いた日本で最も奈良時代らしい建築ではないでしょうか。桁行9間梁間4間、入母屋造の屋根に、裳階を巡らした二重の建物。木材はもちろん釘や飾金具など部材1つ1つに至るまで奈良時代に近づける努力がなされています。内部の折上組入天井には、蓮華文様が描かれており、細部まで復原が試みられています。
講堂
薬師寺大講堂
2003(平成15)年に、桁行9間梁間4間の周囲に庇が巡る建物として再建。興福寺中金堂よりも正面幅は広い設計ですが、単層で、庇の柱が角柱であるなどやや格式の下がる様式になっており、講堂に相応しい外観に。飛鳥時代の伽藍を引き継ぎ、回廊が講堂に取り付くようになっています。
塔
薬師寺西塔
やや年代が古くなりますが、1981(昭和56)年の再建です。近くから見上げるとはっきりと分かりませんが、現存する東塔と比較すると、屋根の勾配に違いがあります。東塔が、水はけを良くするために屋根勾配を急にしたのは後の時代のこと。奈良時代当初の屋根は西塔のようなゆるやかな勾配でした。この緩やかな屋根勾配は奈良時代前期の特徴です。
その他、裳階部分が白壁になっている東塔に対して、西塔は連子窓になっています。復元に際して、法起寺三重塔(飛鳥時代)などが参考にされたのかもしれません。
その他建物
薬師寺食堂
2017(平成29)年の再建。外観は奈良時代の様式を踏襲していますが、実は鉄骨造り。柱は化粧材とのこと。
平城宮東院庭園
2001(平成12)年の再建。東院は皇太子の住まいでしたが、称徳天皇の時代には皇太子が定まっていなかったため天皇自らが行幸し宴などを開催したと言います。発掘の成果にもとづき柱は四角形を面取りした八角柱を使用。天皇や皇太子の宴遊空間の再現を目指して屋根は檜皮葺で復原されていますが、上部構造については不明な点が多いようです。
現代になって再建された天平建築は単に朱塗りが眩いだけの建物と侮るなかれ。現在における最高水準の研究成果と建築技術が詰め込まれているのです。奈良時代の現存建築からは長い年月の中で改良や修復を重ねてきた時間の重みを感じる一方、現代の天平建築からは長い年月をかけて積み重ねられた歴史研究や建築技術の重みを感じます。