西谷墳墓群|四隅突出型墳丘墓でつながる出雲のクニと山陰地方
クニと王の誕生
弥生時代中期後半。中国・前漢の歴史書『漢書』では、倭(日本列島)のことを「百余国に分かれている」と記しています。弥生時代の国(クニ)は各地の平野ごとに形成された、現在の市域程度の面積を持っていたと想定されています。
弥生時代中期を通して各集落の有力者(首長)たちは互いに争い、複数の集落を併合しながらクニを形成して王となっていきました。北部九州では、須玖岡本遺跡(福岡県春日市)や三雲南小路遺跡(福岡県糸島市)などで弥生時代中期後半に活躍した王たちの墓が発見されています。このような墓では、前漢鏡や銅矛・銅剣など、王たちの威信財が副葬品として出土します。
弥生時代後期になると、王の墓が本州でも発見されるようになりました。特に山陽・山陰地域の墳墓は、独特な形状で巨大化する傾向があります。山陽地方・吉備の楯築墳丘墓は約50mの円墳から突出部がのびる双方中円墳(全長約80m)。同じ時代の九州地方・伊都の王墓は10~14mの方墳なので、大きさも形状も違いが明確です。
山陰地方・出雲にも、四隅突出型という独特な形状の巨大王墓が築かれました。
参考記事
西谷墳墓群
出雲平野を東に向かい宍道湖に流れ出る斐伊川(ひい)。弥生時代の流路は現在と異なり、西に向かって出雲大社の前を通過し日本海に流れ出ていました。『古事記』や『日本書紀』のヤマタノオロチ伝説はこの川をモチーフにしていると言われており、古くから重要な河川として捉えられていたようです。この川を見下ろす丘陵(西谷の丘)に巨大な墳墓がいくつも築かれました。出雲のクニを治めた王たちの墓だと見られています。特に大きなものは、3号墓・2号墓・4号墓・9号墓で、この順に築かれたことが分かっています。
これら4基の王墓は四隅突出型と言います。基本形は方墳ですが、その四隅が外側に突き出した独特な形状をしています。なぜ四隅が突き出しているのかはっきりとは分かっていませんが、墳頂に登るための通路が墳墓のシンボルとして発展したと見られています。
発掘調査の進んだ3号墓は、突出部を含むと約52m✕42mの大きさに高さが4.5m。全部で8つの墓穴が発見され、中央付近に掘られた長さ6mの大きな穴2つが王とその妃の墓穴だと見られています。
墳丘中央の墓穴(第4主体)には長さ2mの二重木棺が納められ、その脇に小ぶりの木棺が一緒に埋められていました。2つの棺には朱が敷き詰められており、大きい棺跡からはガラス製や碧玉製の管玉、鉄剣が出土しました。出土物から男王とその子供の棺だと見られています。
この墓穴の周辺で4本の柱穴の跡が見つかったことで、埋葬にともない何らかの施設が組み立てられ葬送の儀式が執り行われたと見られています。
もう1つの墓穴(第1主体)にも二重の木棺があったようです。朱が敷かれ、ガラス製の勾玉や碧玉製の管玉が出土しています。これら豪華な装身具から、こちらの墓穴は王妃のものと想定されています。
王権は順当に引き継がれたようで、次代の王も3号墓のすぐ隣に築かれました。この2号墓は、発見当時すでに大部分が削り取られていましたが、整備がなされ当時の様子に復元されています。3号墓も同様に、裾から斜面にかけてびっしりと石が葺かれていました。
王たちの連携
西谷墳墓群と同じ頃、四隅突出型の墳丘墓は山陰地方の各地で築かれました。大型のものは、安来平野(仲仙寺墳丘墓:国史跡)、米子平野(仙谷墳墓群:国史跡・埋戻し)、倉吉平野(阿弥大寺墳丘墓:国史跡・埋戻し)、鳥取平野(西桂見墳丘墓:消滅)に築かれ、それぞれのクニを治めた王たちが眠っていると考えられています。
これらのクニの王たちは同盟関係や広域連携を構築し、四隅突出型という共通の墳墓を築くことを約束事としていたことが想定されています。弥生時代後期の時点で高度な政治的同盟があったかは不明ですが、少なくとも、墳丘を築くための技術者の交流や土木技術に関する情報交換は王の統制のもと行われたことでしょう。
クニ同士の広域な連携は山陰地方の中だけに留まりません。西谷3号墓では北陸地方や山陽地方の特徴を持った土器が見つかっており、出雲の王の葬送に際して越や吉備のクニの王が参列したり供物を送ったことが想定されます。弥生時代後期の王たちは互いに交流して広域な連携体制を構築していたようです。
しかし、西谷墳墓群では4号墓が築かれたのち、谷を挟んで向かい側の丘(現・三谷神社境内)に9号墓が築かれたのを最後に王墓の築造が途絶えます。同様に山陰の別のクニでも四隅突出型墳丘墓の築造が止まりました。近畿地方に新しい形状の墳墓(前方後円墳)が築かれようとする、ちょうどその頃のことです。
基本情報
- 指定:国史跡「西谷墳墓群」
- 住所:島根県出雲市大津町
- 施設:出雲弥生の森博物館(外部サイト)