東大寺|南都六宗の寺院で学ぶ、奈良時代の仏教史【Part2 華厳宗】

仏教はもともと鎮護国家の役割を期待されて国家に導入されました。しかし、飛鳥時代までは天皇や有力豪族の先祖供養や治病祈願など私的な目的で仏事が開催されることも多く、まだまだ国家的な信仰には至っていませんでした。その流れを鎮護国家に転換したのは、奈良時代の聖武天皇とその皇后光明子でした。

鎮護国家

聖武天皇が即位して5年後、「天平」へと改元されます。「天皇の政治は貴く平和で、百年続く」という漢文から取られた「天平」でしたが、実際は様々な要因によって社会は混乱に陥ります。732年(天平4)には日照りが続き、旱魃による大規模な飢饉に見舞われました。734年(天平6)には大地震が近畿を襲い、多くの家屋が倒壊。735年(天平7)には九州で疫病の感染が広がり、その後全国規模で蔓延、737年(天平9)には国政を預る有力な貴族が何人も病死しました。

平城京|奈良市役所(模型1/1000)
左上から写真中央に向けて伸びる二条大路の突き当りが東大寺。左の大寺院は興福寺。

こうした中、仏の力を借りて社会の安定を取り戻そうとする事業が始まります。736年(天平8)、一切経(伝来した経典すべて)を書写するという国家的な写経事業が開始されます。この事業は「国家が安泰であることを祈願するとともに、仏教の教えを広く行き渡らせ、災いのない世界を実現したい」という光明皇后の発願によって開始されました。5月1日付の願文だったことから通称「五月一日経」と呼ばれ、以後一切経書写の見本となっていきます。743年(天平15)には聖武天皇によっても一切経の書写が開始され、国家的な写経事業が継続していきました。

写経というソフト事業だけでなく、ハード整備も行われます。737年、諸国に釈迦三尊像を造立するよう詔が出されたことに続き、740年(天平12)には七重塔の建立が始まります。これら諸国の寺は、741年(天平13)の詔によって金光明寺と呼ばれるようになります。こうして、「仏の教えを守る国王のもとでは、四天王が現れ、国を護る」という鎮護国家の思想のもと、いわゆる国分寺の建立が始まりました。仏教によって国家の安泰を図る方針がここに明確に出されたのです。

法華堂■国宝・奈良時代
左側の正堂は大和国国分寺の本堂だったのではないかとの説もある。

全国の国分寺のうち最も早く完成したのは天皇のお膝元大和国の国分寺でした。大和国国分寺は、若草山西麓の金鐘寺という前身寺院のもと建立されたからです。この寺には良弁という僧侶がおり、以後、聖武天皇の仏教政策に深く関わることになります。いまの東大寺法華堂の周辺が国分寺の寺域だったようです。

華厳宗

現存する南都六宗のひとつ華厳宗では、無尽縁起という考えが根本にあります。無尽縁起とは「尽きることの無い縁によって起こる」という意味で、この世の中のすべての現象は互いに関連し結びついているという考え方です。そして、すべての事物や現象が数珠つなぎに関連する広大な世界の中心に毘盧遮那仏が君臨していると考えています。毘盧遮那仏は世界の中心からすべての人々に真理を教え、悟りに導こうとする仏です。

華厳宗は、中国で独自に思想が深められ、600年代後半から700代初頭に活躍した唐僧・法蔵によって大成された比較的新しい宗派です。日本へは、法蔵に師事した審祥によって730年前後に持ち込まれました。華厳宗は最も遅く成立した宗派であったため、その教義である華厳経は全宗派を包摂して序列化した完全なる教えとされました。

八角燈籠■国宝・奈良時代
東大寺創建当初のもので、音声菩薩や四頭の獅子が浮彫りされている。

折しも、社会不安に陥っていた日本において、仏教によって社会を安定させようと思い悩んでいた聖武天皇は毘盧遮那仏と出会い、その華厳経の教えに魅力を感じたことでしょう。こうして、743年10月15日、聖武天皇は「三宝(仏・法・僧のこと)によって天地ともに安泰なることを願って、盧舎那仏の金銅像一体をお造りすることとする」という大仏造立の詔を発したのでした。

東大寺

大仏造立の舞台には、大和国国分寺が選ばれました。ここでは、良弁が審祥を招いて華厳経の講読を行っており、華厳宗の寺として急速に整備を進められているところでした。華厳経の大仏を造立するのに相応しい寺になっていたです。こうして、大和国国分寺は東大寺と名を改め、大仏殿と大仏の造立が行われるようになりました。その後、良弁は東大寺の初代別当になります。

二月堂からの眺望
大仏殿の屋根が見える。山麓の丘陵を平地にして大仏殿を建立した。

大和国国分寺は山麓の西面に築かれた山門寺院であったため、大仏殿を建立するためには尾根を削り、平地を造らなければなりません。この大掛かりな土木工事には多くの労働力が必要です。そこで、行基という僧侶の協力を仰ぐことになります。行基は法相宗の薬師寺僧で、都周辺の困窮者の救済、橋や溜池のインフラ整備、寺院の建立などを行い、一般民衆から広く支持を集めていました。民衆に仏の教えを解き、彼らを知識集団(仏教を信奉する慈善団体)として組織することで、こうした社会事業を推進していたのです。大僧正(官僧のトップ)に任命された行基は、良弁とともに大仏造立に一層力を入れることになりました。

大仏殿■国宝・江戸時代
平安時代末期と戦国時代に焼失した。現在に残るものは江戸時代の再建。創建当初の大仏殿は今よりも4間分広かった。

745年から開始された大仏づくりは、原型作成や鋳造、鍍金など7年の工程を経て一応の完成を迎えます。伽藍の方も、744年に大仏殿が完成。後には大仏殿の両脇に仏塔も完成しました。いまはなき西塔・東塔は七重塔で、その高さは100m近くもあったそうです。西塔跡にはいまでも巨大な基壇の土盛りが残っています。

創建時|大仏殿内
高さ100m近くの七重塔が東西にそびえていた。
西塔跡
平安時代に焼失後再建されず、いまは巨大な土壇のみが残る。

そして、752年に開眼供養を行うに至ります。開眼供養には聖武天皇と光明皇后はじめ、文武百官と1万人の僧が参列。開眼に使われた太筆には絹紐が連なっており、参列者はその紐を握って開眼に結縁したそうです。様々な楽舞も演奏され、参列者を楽しませたとのこと。その様子は「仏教が伝来してよりこのかた、未だかつてこれほど盛大な斎会はなかった」と言い伝えられるほどでした。華厳宗の僧2人によって華厳経の講説が行われ、鎮護国家の祈りが高らかに唱えられました。

毘盧遮那仏■国宝・奈良時代
平安時代末期と戦国時代に大きな焼損があり、現存する部分はごく僅かという。

こうして仏教は鎮護国家の役割を確立しました。平城京では各寺院の僧侶が鎮護国家を祈る仏都となり、諸国では国分寺の七重塔がそびえ、日本中に仏の教えが広く行き渡るようになったのです。東大寺はその中心的な役割を担うとともに、南都六宗の研究所が設けられて六宗兼学の寺となっていきました。

大仏と大仏殿はその後兵火によって二度も焼失してしまいますが、その度に為政者の支援や多くの人々の勧進によって復興され、鎮護国家の祈りのもと今に至ります。実は、開眼供養の2年後、奈良時代の仏教に大きな影響を与えた僧侶が東大寺を訪れました。その僧の名を鑑真と言います。

基本情報

  • 指定:国史跡「東大寺旧境内」、世界遺産「古都奈良の文化財」
  • 住所:奈良県奈良市雑司町
  • 施設:東大寺(外部サイト)