東寺|空海の真髄に触れる。真言密教と教王護国寺

平安時代、京内に築かれた東寺と西寺。早くに衰退した西寺に対して、東寺は焼亡を繰り返しながらも、平安時代から規模・位置が変わっていません。平安京唯一の官寺でもあった東寺は、どのような経緯を辿って建立されたのでしょうか。

鎮護国家と東寺

奈良時代。735~737年にかけて疫病が大流行し、社会は未曾有の混乱に陥りました。人口の1/3が死亡したと推定されるほどの国家存亡の危機に対して、ときの天皇聖武は仏法に帰依することで、国家鎮護を図ります。諸国に国分寺を建立するとともに、東大寺に大仏を造立したのでした。

聖武天皇だけでなく皇后光明も仏教へ傾倒していく中で、僧侶の政界進出が相次ぎました。光明の母、藤原宮子の病気治癒のため祈祷を行った玄昉や、聖武と光明の娘称徳天皇の看病を行った道鏡が政権内で重用されていきます。しかし一方で、彼ら僧侶は政治的混乱も同時に引き起こしました。玄昉は藤原広嗣の乱、道鏡は道鏡神託事件と、それぞれが政変の引き金になってしまいます。

これら2つの事件は国家体制の崩壊を招くほどではありませんでしたが、奈良時代末に即位した桓武天皇は、奈良仏教に対して不信感を持ち続けていたことでしょう。そのため、桓武天皇が遷都した平安京には、平城京寺院は移転されることがありませんでした。そして「仏教は鎮護国家のためにあらねばならない」という本来の考えに立ち返り、護国経典への理解の向上や僧侶の資格認定を強化するため、仏教の統制を強める政策を行います。それとともに平安京羅城門の東西に鎮護国家のための東寺と西寺を建立したのでした。

一方で、桓武自身が病を患い、怨霊への恐れが増す中で、山林修行によって呪力を身につけた僧侶には期待するところがありました。このため、山林修行を経て延暦寺を開基していた最澄に唐への渡航許可を与えるとともに、帰国後(805年)の天台宗確立に向けた活動を支えました。

真言宗と東寺

桓武没後(806年)、後ろ盾を失った最澄は天台宗の確立に難航し始めます。代わって、唐に留学していた空海が帰国(806年)。体系化された真言密教を持ち帰り、真言宗を打ち立てました。

真言宗では山林修行による神秘体験を重視しています。そのため、空海は厳しい修行を経て神秘的な呪力を習得しているものと朝廷から認識され、この呪力と加持祈祷によって鎮護国家を図ることが期待されました。こうしたことから、空海は宮中に密教を持ち込むことに成功し、ときの天皇・嵯峨とも詩文や墨筆を通して親交を深めていきます。世に言う「三筆」の3人の内、2人は嵯峨天皇と空海のことです。

823年、空海は嵯峨天皇から建立途中だった東寺を与えられました。この頃、すでに空海は高野山に金剛峯寺を建立する許しを得ていましたが、都の近くに布教のための道場を持ちたいとも考えていました。「金剛峯寺は山林での修行の場、東寺は都での伝法の場」とする構想にもとづき、空海は東寺の整備に着手。こうして、顕教寺院として建立がスタートした東寺は真言密教による教王護国の寺として急速に様変わりしていくのです。

東寺の伽藍

東寺創建の目的は「左右二京の安鎮、東西両国の護衛」。東寺は平安京の左京を守り、ひいては東国をも守る鎮護国家の寺として建立が開始しました。平安遷都後すぐの796年から藤原伊勢人を造東寺司として事業に着手しましたが、進捗はあまりよくなかったようです。空海が東寺を下賜されたときには南大門と金堂しか完成していなかったとのこと。

金堂■国宝・安土桃山時代

空海は、東寺を真言宗の根本道場とするために、特に講堂の建築に力を入れました。講堂の中に一歩を足を踏み入れると、異空間であるような静寂さと厳粛さを感じます。現在も21体の仏像が安置されており、密教の教えが立体的に具現化されており、その特殊な仏像配置は立体曼荼羅とも呼ばれます。中央に座す大日如来像は、仰ぎ見たときに思わず息を飲んでしまい、しばらく立ちすくんでしまうほどの独特の魅惑さをたたえています。

講堂■重文・室町時代

空海はこの講堂を文字通り、東寺の中心に据えます。現地では講堂と金堂の間が詰まっている印象を受けますが、これはすでに完成していた金堂に対して東寺境内の中心に講堂を配置したためです。講堂内の大日如来が東寺の中心に安置されるように設計されているのです。東寺が真言密教そのものの中心に位置するという思想のもと「東寺講堂の大日如来は密教世界の中心に座している」という壮大な空間構想がそこにはありました。

金堂・講堂|手前が金堂、奥が講堂

この大日如来をはじめとする五智如来と菩薩1体は室町時代の作ですが、その他の五大明王や四天王像など15体は平安時代のもの。創建当初から、講堂の内部は今と同じ雰囲気をたたえていたのではないでしょうか。

空海は次に灌頂院の建立に着手しました。灌頂院とは、伝法灌頂という重要な儀式を行う場所です。当初の伽藍設計では、中心の金堂に対して東西に塔を配する、奈良薬師寺のような設計プランでしたが、空海の独自の構想の中で、東側の五重塔に対して西側に灌頂院を配置することになったとのこと。

灌頂院東門■重文・鎌倉時代
灌頂院北門■重文・鎌倉時代

東寺伽藍は、南大門から金堂、講堂、食堂、北大門までが一直線に並び、南大門を入って右手に五重塔、左手に灌頂院という配置が特徴。現在の配置は平安時代当時の位置からほぼ動いていないことも分かっています。

五重塔■国宝・江戸時代

京都駅から徒歩で東寺に向かうと北東側の慶賀門から入ってしまいがちですが、ここはぜひ九条通りに回って南大門から入ることで東寺の空間設計を体感したいところです。

南大門■重文・安土桃山時代
東寺|平安京創生館(模型1/1000)

東寺はもともと、金堂の薬師如来を本尊とする顕教寺院として建立がスタートしていましたが、空海に下賜されたあと密教仕様に変更されて今に至ります。このような経緯は空海の人生や真言宗の思想と合致するところが多いと言われます。奈良仏教と対立し常に論戦を仕掛けた最澄に対して、空海は奈良仏教とも協調を図りつつ、東大寺内に真言院を設立するなど奈良仏教の懐に入り込んでいきます。また、真言宗の思想体系では、奈良仏教は排除されることなくその内側に組み込まれているのです。東寺の建築の際も、既に完成していた金堂と薬師如来像はそのままに、それらを含みこむ形で真言密教の根本道場に生まれ変わりました。

東寺のその後

御影堂■国宝・室町時代

空海は東寺の北西にある御影堂を住房として活動を続けます。824年に神泉苑で雨乞いの祈祷を行ったことで淳和天皇からの信頼も得ていた空海は、834年に宮内に真言院を設立。翌年、この真言院で国家鎮護を祈る後七日御修法ごしちにちみしほを執り行いました。

東寺出土軒丸瓦・軒平瓦|平安京創生館
東寺出土鬼瓦|京都市考古資料館

こうして、真言宗が急速に宮中に浸透したことで、歴代の天皇は真言宗に帰依するようになります。嵯峨天皇離宮の大覚寺、醍醐天皇の醍醐寺、宇多天皇の仁和寺など、皇室の御願寺を中心に真言系の寺院が建立されました。

宝蔵■重文・平安時代

しかし、官寺であった東寺は律令制の崩壊とともに財政面で困窮を極め、空海が設立した教育施設綜芸種智院の土地を売却しなければならないほど資金確保に苦慮します。東寺伽藍は火災や震災、戦乱にあたり何度も罹災しており、平安時代のものは講堂内の仏像15体と北東の宝蔵のみとなってしまいました。

それでも、ときの為政者による援助でなんとか命脈を結び、建立以降、平安京内で位置が変わっていない唯一の施設です。その伽藍配置と講堂内部の神秘的空間は、空海の思想と平安時代の空気をそのままに残しており、真言密教による教王護国の世界観を今に伝えます。

基本情報

  • 指定:国史跡「教王護国寺境内」、世界遺産「古都京都の文化財」
  • 住所:京都府京都市南区九条町
  • 施設:東寺(外部サイト)