御所ヶ谷城|巨大な中門が残る古代山城。神籠石は斉明天皇が築いたのか?

神籠石系山城とはなにか?

日本書紀の天智天皇の条には、長門の城、大野城、基肄城、金田城、屋嶋城、高安城の6つの城を築いたことが記されています。これらは、天智天皇によって国防のため築かれた城とされ、百済の亡命軍人たちの指導のもと築かれたとされることから「朝鮮式山城」と呼ばれます。これとは別に「神籠石系山城」と呼ばれる城跡が北部九州から瀬戸内海沿いにかけて分布していますが、これらは史書に記されておらず、誰が、いつ、何のために築いたのか謎のまま、現在も様々な議論がなされています。

この謎多き神籠石系山城の発見は「列石」から始まります。列石とは、長方形に切り出された巨石を水平方向に横並びに配置したものです。この列石は北部九州や瀬戸内海沿いに位置する山々で発見されはじめ、研究者の間では「神社の神域を囲うためのもの」と言われはじめたことから、いつしか「神籠石(こうごいし)」と呼ばれるようになりました。本来、神籠石は「神が籠もる石=神体」を意味する言葉でしたが、拡大解釈し「列石が囲う神域」の意味でも使用されはじめたわけです。

列石|御所ヶ谷城東門近く
長方形の切石を横に並列させた列石。上に築かれている土塁の基礎になっている。

しかし、この列石に付随して土塁や門跡、石垣などが発掘され始めたことから、「神域を囲うものではなく、山城を構成する防御施設ではないか」という意見が出てきます。さらに、これら土塁や石垣などの様子が、日本書紀に記された大野城や基肄城の遺構と似ていることから、同じ時代に築かれた古代山城だと考えられるようになります。こうして列石が発見された遺跡は山城として認識され、広く知れ渡ることとなりました。

現在、日本書紀に記されている古代山城(大野城や基肄城など)を「朝鮮式山城」と呼ぶのに対して、それ以外の古代山城は「神籠石系山城」と呼ばれています。史書に記されない神籠石系山城は「誰が、いつ、何のために築いたのか」分からないため、多くの説が出ています。しかし発掘の成果が少なく、いまだに確かな定説がない状態です。

瀬戸内海への出入り口を見下ろす御所ヶ谷城

神籠石系山城のひとつ御所ヶ谷城は、福岡県行橋市(かつての豊前国)の京都平野に位置する御所ヶ岳(標高250m)の北斜面に築かれた古代山城です。

御所ヶ岳や京都(みやこ)平野という名称が示すように、この付近はかつて景行天皇が九州に遠征した際に行宮を設けた場所とも言われています。古代には筑前・筑後と豊前・豊後を結ぶ官道が通っており、ここから瀬戸内海に出航することも可能な交通の要衝でもありました。

中門石垣
上段(5m)、下段(2m)の二段構造になっている。下段には水口(排水口)が開く。上段では切石の形と積み方が下層と上層でやや異なる。

北面の谷間を登ると、中門跡の石垣が谷を塞ぐように迫り立っています。長方形に切り出した石を水平方向に揃えて積み重ねた石垣で、石垣裏の土塁から排水溝が通行する水口も伴っています。

中門
水口のある石垣が門の西側にあたる。写真奥の石垣は門の東側。
中門土塁
御所ヶ岳北斜面の谷部を包み込むように総延長2kmの土塁が巡る。

中門の東側の尾根上には東門が、西側の谷部には西門が築かれていた他、複数の門跡が発見されています。

東門石垣
尾根上に東向きに築かれた城門跡。
西門石垣
門の出入り口にあたる中央部は崩壊してしまっているが、両脇の石垣が残る。

馬立場石塁は貯水池を形成するための堤の一部と見られており、籠城することも想定されていたようです。

馬立場石塁
以前は中世に築かれた積み石と見られていたが、いまは御所ヶ谷城築城時の堤跡と考えられている。
馬立場石塁裏の湿地帯
石塁の後背には湿地帯が広がっていることから、築城時は貯水池であったと推定されている。

見晴らしのよい尾根上の平坦地からは古代官道を見下ろすことができ、京都平野の向こうには瀬戸内海も見通せます。奈良時代以降のものと見られる礎石建物跡もありました。望楼が建設されていたのでしょうか。

京都平野|景行神社付近から撮影
写真左から右へ古代官道が通っていた。霞んで見えないが右手奥が瀬戸内海(周防灘)。
礎石建物跡
景行神社裏にある礎石。奈良時代以降の望楼跡と見られている。

斉明天皇が朝倉宮を防衛するために築いたのか?

この御所ヶ谷場はいったい誰が築いたのでしょうか。説の一つに「北部斉明天皇によって白村江の戦いの直前に朝倉宮を防御するために築かれた」というものがあります。

斉明天皇は、最初皇極天皇として即位し、のち655年に重祚した女帝で、中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の母親にあたります。後飛鳥岡本宮をはじめいくつかの王宮を造営したほか、多くの人夫に労役を課して水路を掘ったり石垣を築くなど土木事業を好みました。

660年に百済が唐によって滅ぼされると、朝鮮半島への軍事介入を決断し、翌661年に天皇自らが兵を率いて難波を出航。九州に上陸後、最初は長津(福岡県福岡市と推定される)に入り、その後、朝倉宮(福岡県朝倉市と推定される)を築き移りました

この朝倉宮を防衛するため周辺に築かれた防御施設が神籠石系山城だと言われています。日本書紀にも、斉明天皇6年条に「西方に兵を配して、城柵を修繕し、山川を立ち塞いだ」という、それらしい記述が残っており、斉明天皇が民衆から恨まれるほどの土木事業好きだったことも、この説の根拠となっているようです。

御所ヶ谷城は朝倉宮から離れていますが、古代官道沿いという交通の要衝で、古くは景行天皇の宮ともなった地。敵の軍が北部九州に上陸した際には、朝倉宮から官道を通って御所ヶ谷城に入り、ここから瀬戸内海へ出航して飛鳥に避難するルートが想定されていたのかもしれません。

しかし、斉明天皇は朝倉宮を造営した際に神木を伐って神罰がくだり、間もなく崩御してしまいます。築城途中だった御所ヶ谷城はいったん放置されますが、白村江敗戦後に、大野城と基肄城とともに、防衛網の構築のために工事が再開されたと想定されています。中門石垣の上下で石積みの変わる様子が、築城の中断と再開を示しているとも言われます。しかし残念ながら、御所ヶ谷城の出土物は、600年代後半を示す須恵器がある程度で、細かな年代の特定には至っていません。

基本情報

  • 指定:国史跡「御所ヶ谷神籠石」
  • 住所:福岡県行橋市津積