山上碑|ミヤケにまつわる人々の想い【上野三碑を巡る Part1】
古墳時代の強大国、毛野
古墳時代、北関東には「毛野(けの)」と呼ばれる強大な国があったそうです。その領域は、群馬県全域と栃木県の南部を合わせたものだと想定されています。栃木県を南北に流れる鬼怒川はかつて毛野川として流れていたのではないかと考えられていることから、茨城県の筑波山の辺りまでは毛野の領域だったのではないでしょうか。全長200m以上の古墳は全国に40基程ありますが、その立地はというとわずか3地域に限られ、その一つが毛野です(残り2つは、畿内と吉備)。とても強大な国だったのです。
強大な地域勢力である毛野の反乱を恐れたヤマト王権は、その勢力を削ぐために上毛野(かみつけの)と下毛野(しもつけの)に分割したと言われています。さらに、両国には国造が設置され、上毛野君と下毛野君がそれぞれ国造のポストに就きました。このころ、ヤマト王権は地方支配を進めるため様々な仕組みをつくっていましたが、国造制と姓制もその一環となる制度です。国造制は、地方領域を支配する人物を誰にするか、ヤマト王権がコントロールしようとするもので、支配権を与えられた豪族を国造と呼びました。上毛野・下毛野の支配権を持ったのは上毛野君・下毛野君と呼ばれる地方豪族の一族だったわけです。
一族名の末尾に付いている「君」は姓(カバネ)というものです。カバネとはヤマト王権が豪族たちを序列化するために与えた称号のようなもので、臣(おみ)・連(むらじ)・直(あたい)などがあります。そのうち、君(きみ)のカバネはヤマト王権に服属した歴史の浅い有力豪族に付けられる傾向があり、平たく言うとヤマト王権にとって「扱いにくい」豪族が「君」のカバネを持っていました。上毛野と下毛野を支配した豪族たちはヤマト王権とそんなに親密ではないうえに巨大な勢力を持っている、要は「やっかいな存在」だったのです。
上毛野のミヤケ
両国のうち、上毛野君一族は安閑天皇の時代(530年代)に事件に巻き込まれたことが日本書紀に記されています。この事件は、上毛野の南に位置する武蔵国の国造ポストを巡って笠原直一族の使主(おぬし)と小杵(おき)とが相争ったもので、「武蔵国造の乱」と呼ばれます。この一族の内紛に上毛野君一族である小熊(おぐま)は小杵の方に加担しましたが、一方の使主は安閑天皇の支持を獲得し、結果として小杵は誅殺され、武蔵国造には使主が任命されました。使主は謝意を込めて天皇に武蔵国内の4つの地域を屯倉として献上したそうです。
この屯倉(ミヤケ)とは、天皇の直轄地のことです。畿内のミヤケは天皇家自らが開発した土地である一方、地方のミヤケは地方豪族から献上されたものが多いと見られています。有名なものだと、継体天皇の時代に九州地方の豪族である筑紫君一族から献上された糟屋のミヤケがあります。ミヤケには領域内の水田から上がる穎稲や稲穀を保管する倉庫が置かれたため「屯倉」の漢字が充てられていますが、倉の他にも土地の管理を行う役所などが置かれたようです。
武蔵国造の乱後、上毛野君小熊がどうなったのかまでは記されていません。日本書紀にはこの事件の記述のあとで全国にミヤケを設置した記載があり、そのひとつに上毛野地域の緑野(みどの)にミヤケが設置されたことが記されています。事件の償いとして小熊が緑野地域を献上したのでしょうか。
山上碑に記された佐野のミヤケ
日本書紀のほかに、上毛野のミヤケについて語るのが山上碑(やまのうえひ)です。山上碑は現在、岩野谷丘陵の谷筋南側斜面(標高100m程)にありますが、立碑当初もこの場所にあったと想定されています。
石碑には次のように書かれていました。「辛巳年に記す。佐野三家をお定めになった建守命の子孫の黒売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣に嫁いで生まれた子である長利僧が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。」
後ろの方から読んでいくと、この石碑を立てたのは放光寺(ほうこうじ)の僧、長利(ちょうり)です。彼は母のためにこの石碑を立てた、と記しています。母である黒目刀自(くろめとじ)は建守命(たけもりのみこと)の子孫、とその出自が記されています。長利は、建守命から連なる母と自分を顕彰しているわけです。
では、建守命とは何者なのか。石碑には「佐野の三家をお定めになった」人物であったと記されています。「三家」は屯倉(ミヤケ)のこと。つまり「佐野にあったミヤケを管理していた」ということです。山上碑の立てられた岩野谷丘陵の北側には烏川が流れており、その北岸にはいまでも上佐野・下佐野として「佐野」の地名が残っています。その周辺がヤマト王権の直轄地として献上されたのでしょう。
長利が建守命を顕彰したのは、この佐野のミヤケの初代管理者だったからなのです。支配地の一部をミヤケとして献上したであろう上毛野君一族にとっては屈辱的なことだったでしょうが、ミヤケの管理を任された人物にとっては誉れ高いことだったのです。建守命はいつ頃のどこにいた人物なのか不明ですが、安閑天皇の前後に佐野のミヤケが設置されたとすると、立碑された辛巳年(681年)から150年ほど前の人になります。
山上碑は他にも興味深い点があるので簡単に見ておきます。立碑した長利の寺、放光寺は群馬県前橋市の山王廃寺であることが分かっています。ここから「放光寺」の文字瓦が出土したため明らかになりました。放光寺は地方豪族によって建立された、いわば「民間の寺」ですが、群馬県随一の古代寺院で、長利はそういう由緒正しい寺院に所属していました。ミヤケ管理を担った名門一族の末裔に相応しい僧ではないでしょうか。
また、この石碑の右隣には山上古墳という直径15mの円墳があります。切石で丁寧に組み上げた横穴式石室を持ち、造られた時期は7世紀前半から中頃と見られています。石碑との位置関係から母である黒目刀自が埋葬されているのは間違いないでしょう。古墳被葬者の名前が分かる数少ない事例です。
8世紀に入り、上毛野と下毛野は「毛」の字が削除されて「上野・下野」と表記し「こうずけ・しもつけ」と呼ぶようになります。特に上野国では、山上碑ののちも石碑の建立が続きました。
基本情報
- 指定:特別史跡「山上碑及び古墳」
- 住所:群馬県高崎市山名町
- 施設:多胡碑記念館(外部サイト)