柳之御所遺跡|奥州藤原氏の平泉館と無量光院。陸奥守となった3代目秀衡の最期の栄華

奥州藤原氏3代目秀衡、ついに陸奥守に!

古代東北地方では、奈良時代に蝦夷征討の最前線の軍事拠点として多賀城(たがじょう)が築城されていました(724年)。平安時代になるとさらに北に胆沢城(いさわじょう)が置かれたことで(802年)、多賀城は政務機能を優先する「陸奥国府」となり、代わって胆沢城が軍事拠点を担う「鎮守府」となります。

陸奥国府の長官「陸奥守」と鎮守府の長官「鎮守府将軍」は同じ人物が兼任することが多かったそうです。陸奥国は紛争地帯の最前線だったため、両官職には「軍事貴族」が任官する傾向があり、平将門の乱(939〜940年)・藤原純友の乱(939〜941年)・平忠常の乱(1028年)などで活躍した中級貴族の末裔が赴任しました。

有名な人物として、1052年に陸奥守に任官した源頼義、1083年に陸奥守に任官した子の義家がいます。2人の任官中、この地で勃発した戦争が「前九年合戦」と「後三年合戦」です。両合戦はまさにこの武士の親子によって鎮圧されました。その後、陸奥国に大規模な戦争はなくなり、平和が訪れたため、陸奥守・鎮守府将軍はともに軍事貴族ではなく実務官僚系の中級貴族が任官するようになりました。

そんな中で、陸奥国を実質的に支配したのが在地豪族の「奥州藤原氏」です。奥州藤原氏は初代清衡のときに平泉を拠点とするようになり、金色堂で有名な中尊寺が建立されるなど都市開発が行われました。2代目の基衡は父の拠点を引き継ぎつつ、中央とつながりを持つために陸奥守として赴任してきた中央貴族と親交を深める方針をとります。1143年に陸奥守・鎮守府将軍だった藤原基成と誼を通じ、自分の息子(秀衡)に基成の娘を迎え入れ、姻戚関係を築きました。

奥州産の馬|平泉世界遺産ガイダンスセンター
北方交易による鷲の羽|平泉世界遺産ガイダンスセンター

このころの陸奥は馬や金の産地であり、北海道との交易品の集積地でもありました。北方交易によりもたらされたオオワシの羽やアザラシの皮などは当時都で大流行しており、陸奥には富が集まるようになっていました。こうした富を掌握していたのが奥州藤原氏だったのです。この富によって日宋貿易をとおして中国産の磁器などが平泉にもたらされました。

中国産白磁・青磁|平泉世界遺産ガイダンスセンター■国重文・平安時代

しかし、初代清衡も2代目基衡も実質的に陸奥を支配していたものの、陸奥守や鎮守府将軍に任命されることはありませんでした。藤原氏の姓を冠するものの、当時の朝廷からは「俘囚(服属したエミシ)の主」程度にしか認識されていなかったのです。

そんな奥州藤原氏でしたが、3代目秀衡は、父の手配により中央貴族の娘を妻としており、朝廷にも積極的に馬と金の貢納したため、ついに朝廷からも貴族層として認知され、鎮守府将軍の任官を受けました(1170年)。さらに陸奥守にも任命され(1181年)、名実ともに陸奥国の主になったのです。

陸奥守・秀衡が居所とした平泉館

鎮守府将軍と陸奥守になった秀衡は、胆沢城や多賀城に移ることなく、祖父・父と同じ平泉を拠点としました。秀衡は基衡から継承した居館「平泉館(ひらいずみのたち)」を改良し、ここに入ります。その跡が柳之御所遺跡です。

平泉館位置|柳之御所史跡公園

ちなみに、柳之御所遺跡のすぐ近くに「伽羅御所跡」がありますが、こちらは秀衡の常御所(私的な生活空間)の跡でした。平泉館は公式な御所で、来賓を招いての饗宴や家臣たちとの儀式などの行われた場所と見られています。

平泉館|平泉世界遺産ガイダンスセンター(想定復元模型)

平泉館は、北上川の右岸に形成された河岸段丘上にありました。敷地は西を北上川を天然の堀とし、その他の北東南を人工の堀で囲んでいたと見られています。秀衡が大規模に掘削しなおしたとされる南側の堀が復元されています。

秀衡開削の堀(復元)

堀の内部には南北に道路が敷かれ、その左手(西側)が居館への入り口にあたります。居館は塀で囲まれていました。

平泉館塀跡

塀の中の主な建物は、9間×4間の大型掘立柱建物と、それに付属するように建てられた5間×4間の小型掘立柱建物の2棟です。これらの施設こそが饗宴や儀式の執り行われた建物だと想定されています。

平泉館中心建物
右手が大型掘立柱建物跡、左手が小型掘立柱建物跡。

敷地内の井戸からは、饗宴などで使用されたとみられるかわらけ(使い捨てのお皿)が大量に出土しています。

秀衡時代のかわらけ|平泉世界遺産ガイダンスセンター■国重文・平安時代

この2棟の建物の背後には苑地が広がっています。毛越寺などと比較すると小規模ではありますが、景石なども配された立派な庭園だったと見られます。

庭園跡
苑地の背後の山は金鶏山。

塀の外には倉庫群と見られる建物跡が広がり、井戸やゴミ捨て場などの遺構も発見されています。

倉庫群跡(柱跡復元)
井戸跡(復元)

また、平泉館の西にある猫間が淵と呼ばれる谷部の向こう側に、秀衡は「無量光院」を建立しました。奥州藤原氏による寺院建立は、初代清衡の中尊寺、2代目基衡の毛越寺と引き継いできたものでした。無量光院跡は本格的な阿弥陀寺院で、東側から遥拝することを想定して作庭された西方浄土の庭園遺構が残っています。

無量光院跡■特別史跡・平安時代
真西を向いて阿弥陀仏を遥拝するように設計された浄土庭園。

当時から、この無量光院は宇治の平等院を模したものだと言われており、実際に発掘調査によって、鳳凰堂とほぼ同じ平面型をもつ本堂が建っていたことが判明しました。

無量光院阿弥陀堂跡
基壇跡と礎石が残る。基壇前面には塼(レンガ)が敷かれていたが、鳳凰堂にはない。

兵共が夢の跡、奥州藤原氏の滅亡

清衡・基衡の平和な時代も、秀衡の代では都で内乱が勃発し暗雲が立ち込めようとしていました。秀衡が当主となった前後である1156年には保元の乱が勃発。その3年後には平治の乱が起こり(1159年)、乱の首謀者と近親だった藤原基成は陸奥に配流され、再び平泉の娘婿のもとに身を寄せることになりました。

このとき同じく配流された人物が伊豆の源頼朝。そして、流浪の身となった源義経がいました。特に義経は、藤原基成の縁戚を頼りに平泉に逃亡し、秀衡に保護されることになります(1175年前後)。その後、源頼朝は1180年に平氏打倒の兵を挙げ、これに合流するため義経も平泉を出ました。

以降、源氏と平氏の争いは激化していきます。上述した秀衡の陸奥守任官(1181年)は、平氏が源氏を北から牽制するために朝廷に推挙した結果とも言われます。実際、藤原秀衡のもとには平氏側から出兵するように依頼が来ていましたが、鋭敏な秀衡は平氏と源氏の戦況を見通した上で、この誘いには乗りませんでした。結果、源氏は平氏を滅ぼします。

全国的な支配権を獲得した源頼朝は、智謀優れた秀衡に強く警戒心を持ち、「京に送る馬と金は自分が仲介してさしあげよう」と圧力をかけるようになります。秀衡も表向きは頼朝には従う姿勢を見せることにしました。一方、このころ源頼朝と義経は関係が悪化し、1187年、義経は追討を逃れて再び平泉を訪れてきました。

藤原秀衡は、義経が都で憐れみを持たれいまだに高い評判を維持していることを十分に踏まえたうえで、やがて頼朝と対決したときに主君として担げることも見据えて彼を匿うことにします。しかし同年、不運にも秀衡は重病を患ってしまいます。死に際して秀衡は、泰衡(4代目嫡男)と国衡の2人の息子に、源義経を主君として仰ぎ固く結束するよう遺言したと伝わります。

藤原泰衡は父の遺言を守って頼朝に対抗しますが、挑発に耐えられずに義経を誅殺し、さらに、30万とも言われる頼朝軍に平泉まで侵攻されてしまいます。泰衡は平泉館に火をつけて逃亡しますが、再起することもできず逃亡先で殺されました(1189年)。4代100年の栄華を誇った奥州藤原氏はここに滅んだのです。

高館
樹木の茂る小高い場所が、源義経の最期の地とされる。

そのちょうど500年後の1689年、平泉を訪れた松尾芭蕉は、柳之御所遺跡の北側に位置する高館(たかだち)で、あの「夏草や 兵共が 夢の跡」の有名な俳句を詠みました。

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