醍醐寺三宝院|秀吉の晩年と醍醐の花見

晩年の秀吉

1592年、天下人・豊臣秀吉は肥前国名護屋から朝鮮半島に向けて16万の軍勢を渡海させました。秀吉の野望が剥き出しとなった侵略戦争、文禄の役の開始です。天下一統までの冴え渡った頭脳はすでに無く、秀吉の老いが始まろうとしていました。

翌年、秀吉の側室の一人・淀殿が拾丸という男児を産みます。のちの秀頼です。第一子の鶴松を早々に失っていた秀吉の喜びようは、朝鮮出兵の陣中を飛び出して大阪まで息子を抱きに帰ったほど。しかし、当時、秀吉の後継者には甥の秀次が指名されており、秀吉ののち関白職を継いでいました。我が子に政権を移譲させたい秀吉は、生後間もない秀頼に大坂城を与えるとともに、秀次の娘を娶わせるよう図ったと言います。一国の支配者という身でありながら、息子を溺愛する秀吉の様子は少々異常な程でした。

このような中、1595年、突然に秀次の謀反が告発され、秀次自身はもちろん親類に及ぶすべての者が処刑されました。この苛烈な処置も秀吉の老いや焦りから来るものでしょうか。以後、朝鮮出兵とも相まって豊臣政権への批判が高まっていき、秀吉の人生に陰りが見えてくるのです。

醍醐の花見

1598年、秀吉が亡くなる5ヶ月前に醍醐寺で盛大な花見が行われました。北野の大茶湯が秀吉の最盛期のイベントだとすれば、醍醐の花見は秀吉の晩年を締めくくるイベントと言えるでしょう。

醍醐寺は、平安時代に都の南東にある笠取山山頂に創建された真言宗の寺。開創期の上醍醐と、のちに山麓で発展した下醍醐から成っています。比叡山と双璧をなす寺院として隆盛を誇りましたが、応仁の乱で多くの堂宇が焼亡、伽藍は荒廃していました。

五重塔■国宝・平安時代
応仁の乱においても唯一焼亡を免れた京都府下最古の建築物。花見の前年から修復工事が始まった。

秀吉は、醍醐寺座主であった義演の要請に答え、応仁の乱以後も唯一残っていた五重塔の修復や紀伊国満願寺から本堂を移築するなど、下醍醐の復興を援助しました。特に、塔頭(寺本体とは別に独自の寺領や僧侶集団を持つ組織)の1つ三宝院の改修には力を入れ、秀吉自ら庭園の設計を指導したと言われています。

金堂■国宝・平安時代
紀伊国満願寺の本堂が移築されたが、花見には間に合わなかったという。

花見にあたっては、この下醍醐から山手の方へ登る山道およそ630mに渡って桜を植樹。さらに茶屋や仮店を建てさせ、沿道の賑わいとしました。3月15日の花見当日は、1300人が招かれ、花を見ながら、食べ歩き、皆で歌を詠んだという贅を尽くした豪華な宴となりました。

しかし、この花見の参加者は、秀頼のほか正室の北政所、側室の淀君、妻妾や女官、秀吉側近の妻女たちなど女性ばかり。人数こそ多いものの、これまでの北野大茶湯とは異なって非常に閉鎖的な花見だったのです。宴中、彼女らは2回もお色直しし、その衣装代は大名に負担させたと言われます。さらにこの華やかな宴の傍では、醍醐寺境内の各所に警固所が置かれ、醍醐寺への道すがらにも兵を配置して厳戒な警護体制が敷かれていました。花見が豪勢であればあるほど、警護のものものしさが際立だったのではないでしょうか。誰をも信じられず疑心暗鬼となった心と、それを振り払うように豪華さや贅沢さに溺れる心とが垣間見える、晩年の秀吉を象徴する宴でした。

醍醐寺三宝院

花の散った翌月にも秀吉は醍醐寺を訪れ、作庭の進捗を確認したようです。秀吉は、天下の名石「藤戸石」を三宝院に運ばせ、庭の中心に据えました。この石は、天下を治める者が持つ石として室町時代から引き継がれ、織田信長から秀吉の手に渡ったもの。天下人である自分自身を象徴する石をこの庭に置くことで秀吉はなにを投影したかったのでしょうか。作庭は急ピッチで進められたといいますが、秀吉はおそらくこの庭を見ることなく、4ヶ月後の8月18日に没しました。その後、三宝院では、花見のときに秀吉が山中に建てたと言われる純浄観が移築。庭園が完成したのは1623年のことです。

純浄観■重文・安土桃山時代
茅葺屋根の破風部分には豊臣家の五七の桐の紋が施されている。
唐門■国宝・安土桃山時代
勅使門として1599年に建立。秀吉晩年の居城伏見城の遺構と伝わる。

基本情報

  • 指定:特別史跡・特別名勝「三宝院庭園」、国史跡「醍醐寺境内」、世界遺産「古都京都の文化財」
  • 住所:京都府京都市伏見区醍醐東大路町
  • 施設:醍醐寺(外部サイト)