江戸城内堀|この高低差がすごい!雄大な水濠と荘厳な枡形門を巡る

江戸城内堀沿いに残る"高低差"と"枡形門"
お城好きの人にとって皇居と言えば「江戸城」ですが、いまや皇居は「ランナーの聖地」となっており、ランニング好きにとっても人気のスポットです。「皇居ラン」と呼ばれる定番のコースは、多い時で一日1万人ものランナーが走るそうです。一周5kmという分かりやすい距離に加え、桜田門や国会議事堂、英国大使館などの歴史的建築物を走りながら鑑賞できるのも人気の理由のようです。
皇居ランのコースは大手門あたりか内堀通りを反時計回りに走りはじめ、竹橋からは代官町通りをとおって半蔵門へ向かい、再び内堀通りに沿って元の位置に戻ってきます。今回の史跡ナビでは、このコースを基本としつつも、代官町通りは通らず内堀通りを一周することで、江戸城の内堀をくまなく見ていきます。
そう、今回のテーマは内堀です。なぜ内堀かというと、江戸城の高低差がよく分かるからです。江戸城は武蔵野台地の先端(麹町台地)に築かれた平山城ですが、自然の地形を生かして縄張りされているため、地形の高低差がそのまま残っています。内堀沿いを一周することで、この高低差を体感しようというわけです。

また、内堀沿いには「枡形門」の遺構も残っています。枡形とは、侵入してきた敵を四角い閉鎖空間に誘導し、封じ込めた上で一斉射撃を行う、城の防御施設の1つです。城の出入口を兼ねる枡形は「枡形門」「枡形虎口」とも呼びます。江戸城内堀の枡形門は「橋を渡って高麗門(一の門)をくぐって枡形に入り、右か左に直角に曲がって櫓門(二の門)から枡形を出る」という統一された規格です。2代秀忠のもと1620〜1622年(元和6〜8)に陸奥仙台藩(伊達政宗)によって最初に整備されました。
江戸城では内郭(内堀の内側)や外郭(内堀の外側で外堀の内側)にも多くの枡形が設けられ、地震や火事のたびに修復や再建が繰り返されましたが、多くは撤去されたり再建されずにいまに至っており、建築物が現存しているのは内堀沿いだけになってしまいました。内堀沿いを一周するコースは、城郭の高低差だけでなく、この枡形門も楽しむことができるのです。
日比谷濠から千鳥ヶ淵(半蔵門)まで
今回のコース上には日比谷駅、桜田門駅、半蔵門駅、九段下駅、竹橋駅、大手町駅などの地下鉄駅があります。ぐるっと一周するのでどの駅から始めてもいいのですが、今回は江戸城内堀の高低差を体感することが主な目的なので、日比谷駅からスタートしましょう。内堀沿いで最も低い場所だからです。日比谷駅のA10出口から地上に出て、日比谷濠の隅に向かいます。ここは標高2m。内堀の水はすべてここに流れてきて、城外に排水されていました。

この日比谷濠に沿って桜田門まで進みます。現在の日比谷濠は内堀通りによって途中で凱旋濠に分断されていますが、かつては桜田門まで一続きの堀でした。

左手奥に見えるのは桜田門とその土橋。
桜田門の位置は標高7mで、出発地点から5mも上がります。1663(寛文3)年に再建された高麗門と櫓門が現存しています。桜田郷の地に建つため、門名になりました。小田原街道の起点だったことから「小田原口」とも呼ばれ、江戸五口の1つに数えられています。

高麗門は、冠木に束を建て壁を設けて屋根を乗せた最新式のもので、江戸城の高麗門はすべて同じ様式でした。櫓門は、入母屋屋根の渡櫓の下に設けられた脇戸付の様式です。桜田門枡形の櫓門は両側に脇戸が付いていますが、片側だけの櫓門もあります。


桜田門から西側の堀は桜田濠です。ここまでは総石垣の堀でしたが、桜田濠からは土塁が中心となります。

内堀通りの坂を登ると見えてくるのが半蔵門です。半蔵門の標高は29mで、内堀沿いで最も高い場所です。

橋の直前で振り返ると、自然の谷を生かした桜田濠を見下ろせます。ここがいかに標高が高いか、登りのキツさだけでなく、見た目にもよく分かります。

半蔵門は、江戸城の搦手として、門の警備を強化するため服部正成(半蔵)の屋敷を門近くに置いたことが門名の由来です。甲州街道につながるため「甲州口」とも呼ばれました。江戸五口の1つです。第二次大戦で枡形は消滅し、現在の門は、和田倉門から移設された高麗門です。

半蔵門より北側はもともと池があり桜田濠の谷に向かって小川が流れていましたが、半蔵門土橋によってこれを堰き止め広大な堀としました。この土橋は、両側の堀(半蔵濠と桜田濠)の水位を調節する役割もあり「水戸違い(みとちがい)」としても機能しました。

江戸城内堀沿いの土塁では、単に土を盛っただけでなく、土塁の頂部や底部には石垣も積まれていました。これを「鉢巻土塁」とか「腹巻土塁」と呼びます。頂部(鉢巻)の石垣は防御のため、底部(腹巻)の石垣は土塁の安定性のためのものと言われます。半蔵濠から北側では、この石垣がよく観察できます。頂部の石垣の上にはかつて土塀もあったそうです。

半蔵門から次の田安門まではもともと一続きの堀でしたが、いまは代官町通りで南北に分断されてしまい、南側を半蔵濠、北側を千鳥ヶ淵と呼ぶようになっています。

千鳥ヶ淵(田安門)から馬場先濠(馬場先門)まで
次の田安門は江戸城内郭の最も北側に位置する枡形門です。1636年(寛永13年)に再建された高麗門と櫓門が現存しており、江戸城内で最も古い建築物とされます。この地はもともと田安郷にあたるため、門の名前にも郷名が使われました。上州方面に向かうため「上州口」とも呼ばれ、江戸五口の1つとなっています。のちに8代吉宗の次男宗武が門周辺の敷地に屋敷を建てたため、御三卿の1つ、田安家が起こりました。


田安門の標高は26mです。ここから牛ヶ淵と呼ばれる堀に沿って九段坂をグッと下って清水門(しみずもん)に向かいます。


清水門の標高は9mです。1658年(万治元)に再建された高麗門と櫓門が現存しています。家康入府以前から清水寺があったためにその名がついたと言われます。9代将軍家重の次男重好が門入ってすぐの敷地に屋敷を建てたことから、御三卿の清水家が起こりました。ちなみに3つ目の御三卿は一橋家です。

櫓門の奥には2つ目の枡形空間があり、防御性を重視した構えになっています。北の丸へ上がる雁木坂も江戸時代当時のままと言われます。
清水門からは再び総石垣の堀に戻ります。清水濠から大手濠までの総石垣化は、2代家光のもと1620〜1622年(元和6〜8)のときに行われました。

堀沿いを進むと竹橋門です。明治になって門が撤去され、現在は、櫓門の渡櫓台石垣と高麗門にとりつく左側の石垣が残っています。家康の入府当時から竹製の橋が架かっていたことから、この名がついたと言われます。


次は平川門です。高麗門をくぐると左折して櫓門を通行する他と同じ枡形門ですが、高麗門に対して橋が直行していない点が他と異なります。江戸城の中ではここだけの特異な配置ですが、理由は不明です。平川門は、江戸城本丸の裏門にあたり、御三卿の登城や大奥の女中の出入りに使われました。

橋に使われている擬宝珠は当時のもの。
平川門の標高は5mです。清水門から4mも標高が低くなっています。ここからは大手濠が続きます。

大手濠を進むと大手門です。大手門は江戸城の正門にあたり、公式な登城門として位置付けられています。現在の大手門枡形は1967年(昭和42)に再建されたものです。標高は3mで、平川門からやや下ります。

大手門から次の和田倉門へは内堀通りから噴水公園の中を通っていけそうですが、もともと和田倉濠と桔梗濠はつながっていて渡ることができませんでした。内堀通りが整備されたことで分断されてしまったのです。当時のルートに沿いたいので、いったん大手町交差点まで向かい、日比谷通りを南下してから和田倉門に向かいましょう。

左手に見えるのは和田倉門。
和田倉門は、正式な門である大手門に対して、大名や旗本が日常的に用いる通用門でした。現存していた高麗門は前述のとおり半蔵門へ移築されたため、いまは建築物はありませんが、枡形を構成する石垣が良好に残っています。橋は戦後の復興によるものですが、擬宝珠には江戸時代当時のものが使用されているそうです。標高は2.5mで、大手門よりわずかに低くなっています。


櫓門の渡櫓台の石垣下には、ここから出土した分水石枡が展示されています。もともとは地中に埋まっており、木樋同士の結節点になっていました。

和田倉門の名前の由来は、徳川家康が江戸に転封されたときにここに「わた蔵」を置いたことからきています。「わた」とは海に面するなだらかな曲線部分を指しますが、なぜここに海にまつわる言葉の名残りがあるのでしょうか。
それは、昔このあたりが、武蔵野台地と江戸前島(東京駅〜有楽町〜新橋くらいまでをつなぐ半島)に挟まれた「日比谷入江」だったからです。いまでは想像もできませんが、かつては、大手町交差点あたりまでは南側から湾が食い込んでおり、桜田門から有楽町あたりまで一帯が海でした。

1603年(慶長8)に征夷大将軍となった家康は、江戸城を将軍に相応しい居城とするために、この日比谷入江を埋め立てて二の丸下や大名小路曲輪を築きました。このとき湾の一部が埋められず堀とされ、馬場先濠や日比谷濠となるのです。
堀に沿って南に進むと行幸通りがありますが、江戸時代にはなく大正になって架けられた橋なので、次の馬場先門に向かいましょう。

道路拡張により馬場先門枡形は消滅していますが、枡形を構成していた石垣の根元が残っています。城内側に馬場があったために馬場先門と名付けられたそうです。

他の枡形門の構築から遅れて3代家光のもと1629年(寛永6)に築かれたようです。名前の由来となった馬場で、家光が朝鮮通信使の曲馬を見学したと言われるので、それに合わせて構築された門なのかもしれません。その後、橋も取り外れたようで、長らく門の用を成さず「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれていたそうですが、1668年(寛文8)に起きた江戸の火災以降、避難経路とするために架橋されたと言います。
馬場先門から南側の堀は日比谷濠です。和田倉濠〜馬場先濠〜日比谷濠は2代秀忠のもと、清水濠〜大手濠より少し早く、1614〜1618年(慶長19〜元和4)に、大坂の陣で中断しながらも、総石垣の堀に整備されました。

内堀を一周して見えてくる江戸城の姿
出発地の日比谷濠に戻ってきました。改めて、江戸城の西と東の違いに焦点を当て、内堀一周をおさらいしておきましょう。
最も標高の低い日比谷濠の隅(2m)から最も高い半蔵門(29m)までは登りのルート、半蔵門から田安門(26m)を経由して清水門(9m)、平川門(5m)、大手門(3m)、和田倉門(2.5m)と下りのルートを巡りました。
この標高に合わせて堀の水の流れは、千鳥ヶ淵から桜田濠、日比谷濠を経由する江戸城東側のルートと、田安門脇から牛ヶ淵、清水濠、平川濠、大手濠、和田倉濠、馬場先濠と西側を下るルートの2つがあり、ここ日比谷から城外に排出されました。
城の西側は総石垣の"魅せる"堀でしたが、東側は、石積みの手間は省きつつ、深い堀と高い土塁によって防御性を重視した造りです。
総石垣も、日比谷濠から和田倉濠までの石垣化は1614〜1618年(慶長19〜元和4)にかけて、清水濠から大手濠までの石垣化は1620〜1622年(元和6〜8)にかけて、2回に分けて普請が行われました。
一方で、門の枡形化は、1620〜1622年(元和6〜8)の2代秀忠のときに行われました。馬場先門は少し遅れて3代家光のときに枡形門が整備されたと見られます。
最後に、日比谷門を見て、今日の史跡巡りを終わりましょう。内堀沿いの門は外郭と内郭を結ぶ門ですが、日比谷門だけは外郭と外郭を結ぶ門のため、厳密には内堀沿いの門ではありません。
残っている石垣は、櫓門の上に架かる渡櫓台の北側のものです。また、この渡櫓台から心字池に沿っても石垣が残っています。心字池はかつての堀の名残で、外堀ライン(数寄屋橋から雉子橋まで)へ接続します。

右手の池は心字池。
日比谷門が枡形門として整備されたのは3代家光のもと1627~1629年(寛永4~6)のときです。この期間は鍛冶屋橋門から雉子橋門までの外堀沿いの枡形門整備と同じ時期であるため、日比谷門は外堀の門として位置付けられていたようです。
いかがだったでしょうか。皇居東御苑を十分に堪能し江戸城の別の楽しみ方を模索している方は、ぜひ今回の内堀コースを巡ってみてください。東御苑に行こうと思ったら休園日だったという時の代替コースとしても、楽しめるのではないかと思います。
基本情報
- 指定:特別史跡「江戸城跡」
- 住所:東京都千代田区皇居外苑

