石清水八幡宮|清和天皇の短き生涯。武士の棟梁「河内源氏」はこうして生まれた!
史上初の幼帝として誕生した清和天皇は、幼いゆえに政権運営の大半を祖父である藤原良房に委ねざるを得ないまま、31歳という若さで崩御しました。しかし、清和源氏と呼ばれる末裔たちはその後朝廷に代わる武家政権を打ち立て、時代の舵を握っていきます。石清水八幡宮はまさにその結節点になりました。
清和天皇の生涯
858年、父文徳天皇が急死したことで9歳の惟仁親王が清和天皇として即位しました。当時の最年少記録は14歳で即位した文武天皇。10代にも満たない天皇は史上初でした。文武天皇には祖母である持統太上天皇が後見役としてついた一方、清和天皇には祖父である藤原良房が後見役としてつきました。藤原良房は、清和天皇の在位期間中に権勢を固め、藤原北家繁栄の礎を築くことになります。
清和天皇の在位は858年から876年までの18年間です。比較的長い期間に見えますが、その年齢は9歳から27歳にあたり、若年の期間がほとんどを占め、主体的に政権を握ることができませんでした。その間には、応天門の変(866年)を始めとする平安宮施設の焼失や飢饉・疫病・大地震(869年)などの災害に見舞われてしまいます。その対応に苦慮し、自分の不徳を嘆いた清和天皇は876年に子の貞明親王に譲位し、自らは出家。畿内諸寺を巡行しながら山林修行に励み、嵯峨野の棲霞観(せいかかん。いまの清涼寺)で崩御しました。31歳でした。
石清水八幡宮の創建
当時異例の幼帝が誕生したことで、後見役である藤原良房は天皇の権威付けのために様々な方策を行いました。即位の翌年(859年)、まず元号を「貞観(じょうがん)」に変更します。貞観はもと中国の元号で、600年代前半に「貞観の治」と称えられた太宗の治世にあやかるものでした。さらに、饒益神宝(じょうえきしんぽう)という新しい貨幣を鋳造・発行し、王権の威光を示します。宗教面においては、延暦寺僧侶から灌頂を授けられ、仏法による国家鎮護を図りました。
これら清和天皇の権威付けの一環として、奈良大安寺の僧侶行教が国家鎮護を祈願するため宇佐神宮に派遣されました。宇佐神宮は九州の豊前国にあり、八幡神(応神天皇の神霊)を祀っています。行教が境内にこもり祈願したところ「我、都近くの男山に遷座し、国家を鎮護せむ」という八幡神の神託があり、860年に清和天皇は平安京南西側郊外に位置する男山に社殿を造営して八幡神を迎え入れました。以降、石清水八幡宮は朝廷から厚い崇敬を受け、伊勢神宮とともに「二所宗廟」と並び称されるようになっていきます。
清和源氏の誕生
清和天皇は、貞明親王(のちの陽成天皇)の他18人の皇子女を設けましたが、その多くは臣籍降下して源(みなもと)の姓を名乗りました。清和天皇の血族で源氏姓を下賜された者は特に清和源氏と呼ばれます。彼らが成人したときすでに陽成天皇は退位して別の皇統に移っており、後ろ盾がなかったため政界での立身を望めませんでした。こういった事情から清和源氏は一芸に秀でることで歴史に名を残していきます。特に、清和天皇の孫である源経基の系譜は「河内源氏」として武家としての道を歩み始めました。源経基は939年に起こった平将門・藤原純友の乱の鎮圧で功を立て、その嫡子・満仲は藤原家と結びつきを強めて軍事貴族の家系を確立させました。
清和源氏と石清水八幡宮とのつながりは満仲の子・頼信の代から形成されていきました。頼信は1046年に石清水八幡宮で自身が応神天皇の系譜に連なっていることを掲げ、八幡神の加護のもと武家として栄達できるよう祈願しました。頼信は河内国を本拠としたことから、頼信の一族を「河内源氏」と呼びます。さらに頼信の孫・義家が石清水八幡宮で元服を行ったこともあって、河内源氏は八幡神を氏神として仰ぎ永代に渡り崇拝していくことになるのです。
特に義家の一族からは、源頼朝や足利尊氏、新田義貞など武士の棟梁が生まれました。後に征夷大将軍になって江戸幕府を開く徳川家康も、新田義貞の末裔を自称して源氏姓を名乗っています。現在の石清水八幡宮の社殿の多くは、徳川家康の孫・家光によって再建されたものです。
清和天皇にしてみれば、石清水八幡宮は祖父である藤原良房に言われるままに創建したものであったでしょうし、自分の子や孫の元服すらも見届けることが出来きませんでした。しかし、清和天皇から起こった清和源氏は連綿と系譜をつなげ、日本の歴史に燦然と輝いています。その末裔である徳川家光が築いた石清水八幡宮の社殿は、いまもなお男山に佇み多くの人の崇敬を集めています。
基本情報
- 指定:国史跡「石清水八幡宮境内」
- 住所:京都府八幡市八幡高坊
- 施設:石清水八幡宮(外部サイト)