唐招提寺|南都六宗の寺院で学ぶ、奈良時代の仏教史【Part3 律宗】

鎮護国家の効果を期待された仏教ですが、その役割を担うのは僧侶その人です。しかし、奈良時代には僧侶の質が徐々に低下し、鎮護国家の呪力も危ぶまれていました。こうした状況のもと、新たな制度が求められるようになります。

授戒制度

奈良時代、僧尼になるためには国家による許可が必要でした。僧尼になろうと志す人々は、まず師となる僧侶のもとで修行を行います。十分な修行を積んだと認められると、師はその修行者のために、読誦や暗誦できる経をまとめた学力通知表のようなものを書いてやり、国家機関に提出。担当省庁である治部省は、その者の戸籍を取り寄せて身元を確認するとともに、僧綱(僧侶を統括する役所)に連絡して僧になる資格があるか試験をさせます。無事に合格すれば、国から許可書が発行され、修行者は受戒し晴れて僧侶になることができました。

僧侶たちは官僚の一種で、寺内に住むことを義務とされ、勝手な山林修行や民衆教化が禁止されるなど、行動が制限される代わり、食料が支給されたり、税が免除されたりと特別な配慮もなされました。このように国の管理下に置かれた僧侶たちは、国家鎮護を目的に、法会や祈祷などを行っていたのです。

しかし、租税や労役の免除だけを目的に出家を望む者が増え、満足に経も読めないような質の低い僧侶が増加しました。あげくには、国家の許可を得ずに勝手に剃髪したばかりか、修行もせず堕落した私度僧が増加。これでは、仏教に求める国家鎮護の呪力が低下しかねません。この事態を打開すべく、僧侶の質を保つための授戒制度の確立が求められたのです。

唐招提寺|奈良市役所(模型1/1000)
四条大路と五条大路に挟まれた寺院が唐招提寺(左)。右の寺院は薬師寺。西から撮影。

当時中国では、正式な僧と認められるには三師七証による授戒を受ける必要がありました。これは、戒律に精通した3人の師と証人となる7人の立会人によって執り行われる仏教儀式の一つ。彼らの前で、僧侶としての規律(戒律)を終生守り続けることを誓うことで正式な僧侶となれたのです。日本にも授戒の仕組みはあったものの、戒を授けることのできる僧侶が少なく、三師七証を揃えることができませんでした。そのため、中国からは、日本の僧侶は正式な僧侶と認められていなかったのです。鎮護国家の呪力低下を懸念した日本首脳部は、三師七証による授戒制度を確立するため、その人材を中国から招来することにしました。

律宗

現在する南都六宗のひとつ律宗は、このとき渡日した鑑真が伝えた『四分律』にもとづく宗派です。もともと中国では戒律に関する研究が盛んで、僧侶として戒律を実践することで悟りの境地に至ろうとします。『四分律』では250もの戒について定められており、授戒後も5年は師のもとで修行する必要があるとのこと。600年代に道宣という唐僧が大成し、その曾孫弟子が鑑真でした。

鑑真は、苦難の末、753年末に6度目の渡航で鹿児島に上陸。翌754年、引き連れてきた弟子たちとともに平城京に入り、完成したばかりの東大寺に戒壇(授戒の儀式を執り行う場所)を設立しました。その後、東国の下野国薬師寺と西国の筑前国観世音寺にも戒壇を設立。こうして日本の授戒制度が整うとともに、鑑真がもたらした『四分律』によって律宗が起こりました。

唐招提寺

一時、東大寺に籍を置いた鑑真でしたが、平城京五条二坊にあった皇族の旧宅地を貰い受け、新たな寺の建立を始めます。こうして759年に創建された寺が唐招提寺です。創建当初、寺は「唐律招提」と呼ばれました。「招提」とは道場のこと。この寺は、唐律を学び、実践するための道場だったのです。

南大門扁額復元
孝謙天皇の宸筆と伝わる実物(重文)は新宝蔵で期間限定で閲覧可能。

伽藍の整備は、僧侶が集い学ぶための講堂や食堂から始まったと考えられています。講堂は、ちょうど建替時期にあった平城宮東朝集殿を貰い受け、寺院に相応しい造りに改修したもの。講堂の裏手に礎石が残るのみとなった食堂も、当時権勢を誇っていた藤原氏からの寄進だったとのこと。

講堂■国宝・奈良時代
鎌倉時代と江戸時代に大規模な改編が加わっているが、もとは平城宮の東朝集殿の移築。内部に安置される持国天・増長天の2像は奈良時代の造立。
食堂跡

このとき、金堂の整備は十分ではなく、仮屋のまま本尊を安置したよう。鑑真の没(763年)後に、正式に完成したのがいまの金堂です。金堂の本尊は盧舎那仏、向かって右手に薬師如来、左手に千手観音菩薩。この独特な配置は、中央の東大寺、東の下野薬師寺、西の筑前観世音寺という日本の三戒壇それぞれの本尊を象徴させているとか。

金堂■国宝・奈良時代
現存する奈良時代唯一の金堂。江戸時代の改修で現在の高い屋根になった。安置される盧遮那仏と千手観音は奈良時代の作。

その後、東塔や戒壇、回廊などが建立され伽藍が完成しました。焼失した建物もありますが、金堂や講堂、祀られている仏像や鑑真和上坐像など奈良時代の文化財も多く現存。境内の北東区域には鑑真の廟が建立されています。鑑真の教えのもと、戒律を守ることの意義がいまも伝え続けられているのです。

鑑真墓所
境内東北域にある鑑真の廟。土壇上の宝篋印塔は鎌倉時代建立。
戒壇
鎌倉時代からの覆屋があったが江戸時代に焼失。最上段の宝塔は昭和になって建立されたもの。

大官寺の移転、鎮護国家思想の確立、戒壇制度の設立を通して仏教は着実に日本に根付いていきました。実は鑑真が日本にもたらしたものは戒律制度だけではありません。持ち込まれた経典の中には、天台教学が含まれていたのです。この天台教学の魅力に取り憑かれた僧侶が最澄でした。平安時代になり、最澄は空海とともに唐に渡り、最新の仏教を日本に持ち帰ります。彼らによって開かれた天台宗と真言宗を受けて、奈良の仏教も転機を迎えることになるのでした。

基本情報

  • 指定:国史跡「唐招提寺旧境内」、世界遺産「古都奈良の文化財」
  • 住所:奈良県奈良市五条町
  • 施設:唐招提寺(外部サイト)