古代山城|飛鳥時代の謎多き山城を徹底解説!近世城郭との違いとは?

古代山城とはなにか?

読者の方は「山城」と聞いてどのような城を思い浮かべますか?天下人信長の岐阜城、雲海で有名な竹田城、現存12天守の備中松山城など、有名な山城は数多くありますが、一般的に思い浮かべる山城は「近世城郭」と呼ばれるものでしょう。これらの山城は、最初の築城は室町時代(中世)に遡っても、安土桃山時代(近世)に入って以降に大規模な改修を受けたものが多く、私たちが目にする遺構はほとんどが「近世」の状態です。

岐阜城
竹田城
備中松山城

しかし、山城の歴史は、もっと言えば城の歴史は、近世より遥か前の飛鳥時代まで遡ります。「日本書紀」の天智天皇称制4年(665年)の条には「城を長門国に築かせ、筑紫に大野と椽の二城を築かせた」と記載があり、これが築城に関する日本列島で最初の記録になります。このように古代に築かれた山城を「古代山城(こだいさんじょう)」と呼びます。

鬼ノ城
御所ヶ谷城
石城山城

中・近世の城が主に南北朝期や戦国期の内乱にともない建築されたのに対して、古代山城は外国との戦争中に建築されたのが大きな特徴です。当時の日本は中国(唐)や朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)との複雑な国際関係の中にあり、特に唐からの外圧に対抗するため防衛施設が必要でした。

飛鳥時代の東アジア情勢

しかし、日本には築城に関する技術も知恵もなかったので、親交の深かった百済(くだら)から軍人を呼び寄せ、彼らの指導のもと西日本を中心に城を築くことになります。現在「古代山城」をわざわざ「さんじょう」と音読みするのはこのように朝鮮式の技術を由来とするためですが、当時の日本では「〇〇(地名)の城(き)」など「き」と呼ばれていたようです。

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大野城|基肄城とともに造られた古代最大の山城

大野城は福岡県糟屋郡にある特別史跡。飛鳥時代に築かれた山城跡です。大宰府政庁の背後に位置する大野山に築城されました。「百間石垣」などの現代に残る堅牢な石垣からは、白村江敗戦後における大和朝廷の緊張感が伝わります。

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基肄城|大野城とともに築かれた古代最大の山城

基肄城は佐賀県三養基郡にある特別史跡。飛鳥時代に築かれた山城跡です。古代山城の中で最大規模を誇る「水門石垣」などからは、白村江敗戦後における大和朝廷の緊張感が伝わります。

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屋嶋城|天智天皇のもとで進む軍備の再構築

屋嶋城は香川県高松市にある国史跡。飛鳥時代に築かれた古代山城です。天智天皇による軍備再構築の一環で金田城、高安城とともに築城されました。朝鮮半島由来の構造をもつ城門跡が発見され、往時の姿に復元されています。

古代山城の種類と構造

古代山城は「朝鮮式山城」「神籠石(こうごいし)系山城」の2種類に分けられます。「朝鮮式山城」とは日本書紀や続日本紀に記録が残り、朝鮮由来の技術で飛鳥時代に築かれた城で、大野城、基肄城などがあげられます。一方「神籠石系山城」は公式記録に一切残っていない無名の城のことで、御所ヶ谷城や鬼ノ城などがあり、近年も遺構の発見が相次いでいます。これらの分類名は研究の便宜で名付けられた学術用語で、両者に構造上の違いはないとするのが通説になっており、両者とも飛鳥時代に朝鮮式の技術で築城されたものと考えられています。

構造上の特徴としては、城域の全周を土塁で囲んでいる点があげられます。中・近世の城は「曲輪」や「郭」などの独立した小区画ごとに土塁や石垣を築いていますが、古代の山城は城の全域をまるまる囲いました。古代山城が「土の城」と言われるのはそのためです。

大野城尾花地区土塁
基肄城西側土塁

土だけでなくもちろん石も利用しました。谷に当たる部分では排水が必要なため、土塁ではなく石塁(石垣)に切り替えて、排水口も設けます。ほぼ垂直に積むのが古代山城の特徴ですが、その技術は中・近世の城郭に勝らずとも劣らない素晴らしいものです。

大野城百間石垣
基肄城水門石垣

土塁の外側から中に入るところには城門が設けられます。櫓門が設けられる近世城郭と同様、古代山城でも楼門が築かれました。

鬼ノ城復元西門

また、枡形虎口が設けられる中・近世城郭に対して、古代山城では「懸門(けんもん)」や「甕城(おうじょう)」といった朝鮮由来の工夫がなされています。「懸門」とは城の内外で高低差を設け、普段は梯子や板を渡して出入りしながら、有事の際はこれらを引き上げて敵の侵入を阻止するものです。また「甕城」は、城門からまっすぐ内部を見たときに壁がそびえ、行き止まりのように見える構造のことです。

屋嶋城復元城門(懸門)
基肄城復元城門(甕城)

城内は、中・近世城郭が曲輪や郭を複雑に配置し城内での合戦も想定していたのに対して、古代山城では籠城に特化し民衆や官人を丸ごと抱え込むための備蓄倉庫や貯水池が配置されていました。倉庫は、築城された飛鳥時代には掘立柱式でしたが、奈良時代になって礎石立に作り変えられ、このときの礎石がいま遺構として残っています。

基肄城丸尾礎石跡
基肄城つつみ跡

このような特徴を持つ古代山城は土塁の巡り方で「包谷式」「鉢巻式」の2つに分類されることが多いです。鉢巻式は山頂を頭のてっぺんにして標高の高いところで鉢巻を巻くように巡らせるタイプで、包谷(ほうこく)式は山頂から尾根を伝って山裾まで降りて谷を抱き込むように土塁を巡らせるタイプです。とはいえ、両者の判別は難しく、中間的なものも多いので明確な区別がなされていないのが実情です。また、古代山城と中・近世の城郭には技術的な連続性は見出されていないようです。飛鳥時代と南北朝期の間には六百年もの開きがあるので、その間の平安な時代に断絶してしまったのでしょう。

名もなき古代山城は誰が何のために築いたのか?

記録に残っている「朝鮮式山城」については、天智天皇が唐の侵略に備えて築城したと考えられています。大野城や基肄城は白村江の敗戦(唐・新羅の連合軍に日本が敗れた戦い)の直後に作られたという記録が残っているからです。一方で「神籠石系山城」である名もなき山城は誰が何のために築城したのか分かっておらず、古代考古学上の最大の謎として君臨し続けています。この謎についての4つの説をみていきましょう。

1つ目は「斉明天皇によって朝鮮出兵時に朝倉宮を防御するために築かれた」という説です。斉明天皇は、複雑な東アジア情勢に対応するため朝鮮半島への軍事介入を決断し、661年に自ら九州に上陸しました。このとき、行宮として朝倉宮(あさくらのみや)を築きましたが、この宮を防衛するため周辺に築かれた軍事施設が神籠石系山城だと考えられています。

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御所ヶ谷城(御所ヶ谷神籠石)は福岡県行橋市にある国史跡。飛鳥時代に築かれたと見られる古代山城です。石垣や土塁、建物跡などが残るものの、いつ誰が何のために築いたのか、謎の多い遺跡です。

2つ目の説は「(大和朝廷ではなく)地方豪族が唐軍からの逃げ城として築いた」という説です。斉明天皇の朝鮮出兵には西日本を中心に多くの地方豪族も従軍しました。彼らは白村江の敗戦を経験し、命からがら地元に戻ってきた後、唐軍が日本に攻めてきたときにどこに逃げどう民を守るかを考えなければいけませんでした。こうして築かれたのが神籠石系山城で、大和朝廷が築いたわけではないので公式な記録には記されなかったのだと考えられています。

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3つ目は「朝鮮式山城と同様に天智天皇が国防のために築いた」という最も一般的な説です。白村江の敗戦を経験した大和朝廷は、大野城や基肄城などの日本書紀に残る朝鮮式山城を築城しましたが、そのほかにも多くの城を築いたことは当然に想定されることであり、たまたま日本書紀に記されなかっただけなのではないか、と考えられています。当面の危機を乗り切った大和朝廷は、築城途中だった山城の多くを未完成のまま放棄したようで、完成しなかった城は記録に残さなかったのかもしれません。

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讃岐城山城は香川県坂出市にある国史跡。飛鳥時代に築かれたと見られる古代山城です。石垣や土塁、唐居敷(門礎石)などが残るものの、いつ誰が何のために築いたのか、謎の多い遺跡です。

そして4つ目は「天武天皇のもと、広域行政官である大宰(たいさい)・総領(そうりょう)が地方の軍事を統率するために築いた」という説です。朝鮮出兵に多くの地方豪族が動員されたことからも分かるように、当時の日本の軍事力は地方豪族に負うところが大きかったと言われます。「壬申の乱」という古代最大の内乱に勝利した天武天皇は、地方の軍事力をいかに掌握するかが政治の要だと痛感しました。そこで、大宰・総領と呼ばれる広域の行政官を置き彼らによって地方の軍事を統率するため、その拠点となる軍事施設として神籠石系山城を築いたのではないかと考えられています。

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鬼ノ城は岡山県総社市にある国史跡。飛鳥時代に築かれたと見られる古代山城です。石垣や土塁、建物跡などが残り、城門が復元されているものの、いつ誰が何のために築いたのか、謎の多い遺跡です。

神籠石系山城の謎についてはいまもなお議論が続いており、確かな説はありません。上で見てきた4つの説についても、1つの説だけがすべての神籠石系山城に当てはまるのではなく、城によって築城の背景は異なるのかもしれません。

「神籠石系山城は誰が何のために築いたのか。」みなさんも、古代山城を歩きながらこの謎について考えてみてください。ただ、古代山城の遺跡は未整備のところも多く、遺構を見学するためには険しい山道を歩く必要があるので、装備や行程を万全にして史跡巡りを楽しんください。

参考文献

『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』(2017年初版)
著者:向井一雄(古代山城研究会代表)